難攻不落の小田原城――。
かつて武田信玄や上杉謙信の侵攻も食い止めたこの城は、北条家の礎として全国にその名を知られ、特に秀吉との決戦がきまってから築かれた全長9kmにも及ぶ「総構え」は噂に違わぬ鉄壁の防備として西国の武将たちを慄かせた。
しかし……。
後詰(他勢力からの救援)のない籠城など、ただの犬死。
そう解釈されるように、単に小田原に籠っているだけでは勝ち目など見えない。
むろん北条とて、小田原に至る手前の城に兵を配置し、伊達や徳川の助力に一縷の望みを託すなどして、秀吉軍を待ち構えていたが、やはり多勢に無勢。
刻一刻と、その瞬間は訪れようとしていた。
名人の最期
◆箱根にある山中城は、小田原城の支城ネットワークの重要拠点であり、東海道の押さえとして北条氏康が建てたものです。
小田原征伐では激戦が行われたところの一つ。
豊臣としてもここで万が一にもコケるわけにもいかず、一翼を任せられたのが戦上手として知られる堀秀政さんでした。
堀秀政さんの死因は、現在のところナゾとされておりまして。
小田原征伐中に病死したという説も有力ですが、織田信長の側近として戦場を駆け巡った、THE・戦国武将!な御方ですので最期は戦場で……と心情的には考えたくなりますね。
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支城陥落
◆小田原征伐のとき、北条家の当主は五代目・北条氏直でした。
しかし、実権を握っていたのが隠居の北条氏政とされ、何かとマイナスエピソードの残る御方ですよね。
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特にわかりやすいのが、長い会議で何も決まらんという「小田原評定」でしょうか。
実際のところは、関東一円に精力を轟かせていた北条家を取り仕切っていたので、凡夫だったワケではないんですよね。
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