主人公・井伊直虎の母であり、井伊直盛(なおもり)の妻であったのが新野千賀(ちか・後に祐椿尼)である。
ドラマでは財前直見さんが演じられたこの女性は、史実においては一体どんな人物だったか?
【TOP画像】浜松で開催された野外劇『直虎』(磯田道史脚本)より/左から千賀(山野はるみさん)・次郎法師(儘下笑美さん)・井伊直盛(斉藤ゆたかさん)
お好きな項目に飛べる目次
父は新野親矩(ちかのり)か 今川氏と井伊氏を結ぶ千賀
『井伊直平一代記』によれば、井伊直盛が人質として駿府に住んでいた頃、今川義元(直盛の烏帽子親でもある)の斡旋で新野千賀と結婚。
井伊直盛(直虎の父)は無骨武人!井伊家のために戦い続け桶狭間に散る
続きを見る
彼女は今川家重臣・新野氏の娘であり、今川氏と井伊氏を結ぶ政略結婚でもあった。
政略結婚は、戦国時代には特段珍しいことではない。
たとえば『井伊家年譜』の井伊直氏のところには「母今川氏範妹」とあり、かなり以前から今川氏と井伊家の関係が深かったことがうかがえる。
ともかく、この千賀の実父・新野氏とは一体誰のことだったのか?
直盛が千賀と結婚した時、今川氏の重臣に新野親矩(ちかのり)がいた。
今川から井伊へ目付家老として送り込まれた新野左馬助親矩 最終的に井伊を救う
続きを見る
通説では「新野千賀の兄」となっているが、彼女の輿入れが10代前半だったとすれば、今川家重臣であった兄(親矩)とは、いささか年が離れ過ぎていることになる。
むしろ「父」の可能性が高く、実際、『新野村誌』に掲載されている新野氏系図で、千賀は新野親矩の「娘」になっている。
方針転換を導いたとされる今川軍師の太原崇孚
そんな新野千賀が井伊直盛に嫁いで「井伊千賀」となったのは天文5年(1536年)以降のこと。
この頃、義元が今川家宗主となり、「井伊家と敵対するよりも味方にした方が得」という方針転換が行われたのであった。
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
続きを見る
以前から関係の深い両家であると先に述べたが、国境に位置する井伊谷は今川から常に裏切りの対象として監視されており、同時に粛清なども行われていた。
これを確実な味方にすべく方針転換を導いたのは太原崇孚(たいげん そうふ・太原雪斎)とも囁かれている。
義元を支えた黒衣の宰相「太原雪斎」武田や北条と渡り合い今川を躍進させる
続きを見る
義元の軍師(相談役)として現代でも広く知られる僧侶であり、同じく井伊直虎の軍師的存在であった僧・南渓瑞聞と同じ臨済宗妙心寺派に属していた。
両者で話し合いが行われたという証左はなく、あくまで想像に過ぎないが、何らかの交渉事はあったのかもしれない。
嫡男を生む前に夫・直盛は桶狭間で殉死した
千賀が直盛と結婚すると、おとわ(幼少期の井伊直虎)は「井伊谷の井伊氏居館で生まれた」と伝わっている。
千賀は、住み慣れた新野(駿府の新野屋敷か)を離れて井伊氏居館に住み、そこで井伊家宗主・直盛の妻として直虎を生んだ。
知り合いのいない井伊谷では、さぞかし心細かったことであろう。
心の支えは、夫・直盛しかいなかった可能性も否定できないばかりか、宗主に嫁いだからには1日でも早い嫡男の出産を周囲から期待されたハズ。
しかし、娘・おとわを生み、次の子を授かる前に、夫の井伊直盛は殉死してしまう。
永禄3年(1560年)に勃発した【桶狭間の戦い】がキッカケであった。
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?
続きを見る
直政に将来を託し、女3人で育て上げる
結局、夫が死んだ千賀は、戦国時代の武家の習いで出家。
「祐椿尼(ゆうちんに)」と名乗って龍潭寺・塔頭の一宇である松岳院に住む。
松岳院に住んで、彼女は余生をノンビリ過ごした……ワケではない。
千賀が残した最大の功績。それこそが後の徳川四天王の一角を占める井伊直政であろう。
武田の赤備えを継いだ井伊直政(虎松)徳川四天王の生涯42年とは?
続きを見る
『井伊家伝記』には、祐椿尼と井伊直虎、しの(井伊直政の実母)が3名セットで登場、以下のように記されている。
※続きは【次のページへ】をclick!