徳川家康いわく。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
しかし、世の中には重荷どころか、何度も崖っぷちから足を踏み外しかけながらも、天寿を全うするというタイプの人が存在します。
悪運と呼ぶべきかどうか。
今回は、そんな感じの一生を送った文化人に注目。
延暦四年(785年)8月28日は、歌人の大伴家持(おおともの やかもち)が亡くなった日です。
三十六歌仙の一人でもあり、百人一首では「中納言家持」としてこの歌が入っていますので、何となく聞き覚えのある方もおられるのではないでしょうか。
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
【意訳】中国では、七夕の日にかささぎが並んで橋を作るという。それに劣らぬ宮中の橋に霜が降りているのを見ると、夜が深まっているのだとつくづく思う
ちょっと予備知識を要しますが、冬の冴え冴えとした空気が想像できる歌ですね。
あるいは【令和】の出典元となった大伴旅人、その息子だったりもするので、そう考えると意外と身近な方かもしれません。
本稿では大伴家持の生涯を見て参りましょう。
※以下は大伴旅人の関連記事となります
元号「令和」の由来となる大伴旅人は「酒壺になりたい」程の酒好き歌人だった
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もとは武人の一族 幼き頃は太宰府で過ごす
大伴家持さんと言いますと、フツーは「和歌の人」という紹介になりますので、いかにも文化人のお公家さんを連想されるでしょうか。
実は、大伴氏はもともと武門の家柄です。
また、思い切った性格の一族でもあったようで、近い時代の親戚には、鑑真の密航を手伝った大伴古麻呂という人もいました。
こういうギリギリの綱渡りする人って、はたから見てると面白いですよね。直接関わると火の粉がかかることも多いですが。
ともあれ由緒正しい家に生まれた家持でしたが、父親が大宰府に赴任したため、小さい頃はその周辺で育ちました。
両親の他には弟と妹が一人ずついたようです。長じてからも弟と歌のやり取りをしているので、そこそこ仲は良かったのでしょう。
都に戻ってきたのは、家持がだいたい13歳くらいのときです。
ちなみに彼の生年がハッキリしていないため、年齢については「だいたいこのくらい」としかいえません。以下も同様になりますのでよろしくお願いします。
越中で詠んだ歌223首
帰京の翌年に父が亡くなり、家持は若くして家を背負っていくことになりました……が、歳相応に女性との恋も楽しんでいたようです。
まぁ、励みになるものがあるほうが仕事にもやる気出ますものね。若ければなおのことです。
20歳で内舎人(うどねり・この時代は天皇の親衛隊で現代では事務職)になり、聖武天皇が伊勢へ行幸する際などは付き従っています。
そして28歳のとき越中守に任じられ、実際に現地へ赴任しました。
都の公家が地方に下るとなると『こんな田舎に来てもなぁ……』という印象を抱くことも少なくありませんが、家持はそうでもなかったようです。
というのも、越中の滞在間、彼は223首もの歌を詠んでいるのです。
家持は万葉集に数百首もとられている歌人ですが、むしろ巻によっては「家持の歌集と他の人の歌をまとめた」といったほうが正しいものすらあります。
その部分の歌は、越中などの地方で詠んだものです。
ごく一部をご紹介しましょう。
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