治承5年(1181年)1月14日は、高倉天皇が崩御された日。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代ですが、何となく聞き覚えがあるような、でもどんなことをしたのかはっきりわからない……そんな印象の方が多いかもしれません。
それもそのはず、この方が生きていたのは平家の全盛期~斜陽の頃にあたる上、ご本人がわずか21歳(数え年)で亡くなってしまっているのです。
ここだけ聞くと何やら不穏な感じもしますが、その短い生涯は一体どんなものだったのか。
振り返ってみましょう。
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二条天皇に皇子がいたので可能性は低かったが
高倉天皇は、後白河天皇と平滋子(しげこ)の間に生まれました。
滋子は平清盛の妻・時子の妹で、美貌と聡明さでよく知られた人です。
後白河天皇の容貌については特に伝わっていませんが、高倉天皇は母に似たようで、色の白い美男子であったといわれています。同性の親より異性の親に似るっていいますものね。
ただし……。
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後白河天皇が譲位した後の子供だったこと。
ときの天皇・二条天皇(高倉天皇からすると異母兄)に皇子がいたこと。
そんな状況から、本来であれば高倉天皇が位につく可能性は極めて低いものでした。
しかし、後白河天皇と二条天皇が険悪な仲のまま、二条天皇が先に崩御し、さらに二条天皇の子である六条天皇がまだ幼少だったため、後白河天皇は「もうちょっと年長者が天皇になったほうが皆安心するよね^^」(※イメージです)という名目で、高倉天皇を皇太子に立てた後、六条天皇を引きずり下ろして高倉天皇を即位させます。
ちなみに、即位したとき高倉天皇はまだ8歳でした。
年長とはいったい?
当然のごとく実際の政治は後白河天皇が行っています。権力って怖い……。
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清盛・娘との間に後の安徳天皇が生まれる
天皇に限らず、君主の仕事のうち、最も大切な一つが後継者を作ること。
乳幼児の死亡率が高いこの時代、できるだけ多くの子供を授かるために、早いうちからお相手を見つけねばなりません。
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高倉天皇は、11歳のときに平清盛の娘・徳子を中宮に迎えています。
母方のいとこ同士であり、高倉天皇にとっては6歳上の姉さん女房でした。
6年後には二人の間に皇子が生まれているので、夫婦仲としては悪くなかったのではないでしょうか。高倉天皇の年齢からすると、結婚当初は夫婦というより「新しいお姉さんができた」感じだったかもしれません。
後白河天皇の意向もあり、生まれた皇子は生後一ヶ月ほどで皇太子に立てられます。
これが後の安徳天皇です。
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人の親ともなれば、年齢的に若くても、世間的には一人前。
安徳天皇が生まれた翌年に実父・後白河天皇と義父・清盛が対立し、最終的に後白河天皇が幽閉状態になると、いよいよ高倉天皇に親政を行うチャンスがやってきました。
ときに高倉天皇は18歳。
若くて美しい君主だなんてどこのメルヘンですかね(褒め言葉)。
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