毛利と聞いて、誰しも思い浮かべるのが毛利元就――。
とりわけ有名なエピソード「三本の矢」は元就の息子達であり、次の3名となります。
しかし元就の男児は3名だけではありません。
全部で9人ないし10人の息子がいるとされていて、四男以下の子供達を「虫けら」呼ばわりしたこともあります。
四男以下の子供たちも決してボンクラではありません。
例えば四男・穂井田元清(ほいだもときよ)なんかも優秀な人物だったと伝わります。
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では、なぜ実の子たちをそんな風に扱ったのか?
一応ちゃんとした理由はあります。
三男までが正室生まれ。
その後が継室(正室が亡くなった後の正妻)もしくは側室生まれだったため、区別をつけるべく【わざと悪しざまに言ったんじゃないか】とされているのです。
そして、ぞんざいに扱われた子の子孫には、豊臣秀吉に高く買われるほど才気あふれる者もおりました。
1650年11月26日(慶安3年閏10月3日)に亡くなった毛利秀元です。
他ならぬ穂井田元清の息子。
つまり元就から見れば孫にあたるのですが、この方、14才の初陣が文禄の役(朝鮮出兵)であり、毛利軍3万もの兵を任されているのです。
一体なぜ、そんなことになったのか?
早速、振り返ってみましょう。
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初陣が文禄の役 幼い頃から優れた武将だった
この毛利秀元は、小さい頃から武将としての資質に優れた人でした。
初陣が【文禄の役】だったことからも、それは窺えます。
このとき毛利軍を率いていたのは従兄であり当主の毛利輝元だったのですが、渡海後、体調を崩してしまっていました。
朝鮮半島は近所とはいえ気候が違いますし、水が合わなかった可能性もあるでしょう。
そこでこの知らせを受けた豊臣秀吉は、「アイツならできると思う!」として、毛利秀元に毛利軍の大将を申し付けたのです。
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ときに秀元十四歳。
初陣としてはちょうどいい年頃ですが、大軍である毛利の大将となると話は別でしょう。
さすがに徳川家康や前田利家をはじめとした大名達も反対しておりまして、
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それもそのはず【文禄の役】は凄まじいまでのメンバーで構成されておりました。
戦国期に大活躍した歴戦の勇士ばかり
【文禄の役】のメンツはざっと以下の通りです。
【文禄の役】
1番隊:小西行長・宗義智・松浦鎮信・有馬晴信(約19,000人)
4番隊:毛利勝信(森吉成)・島津義弘・高橋元種・秋月種長(約14,000人)
5番隊:福島正則・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正(約25,000人)
7番隊:毛利輝元(約30,000人)
8番隊:宇喜多秀家(約10,000人)
9番隊:豊臣秀勝・細川忠興(約12,000人)
いずれも戦国期のド真ん中に各戦場で大活躍した歴戦の勇士ばかり。
初陣の若武者が入り込む余地はないほどです。
しかも毛利軍は最大の3万人からの兵を引き連れていくのですから、万が一にも些細な失敗から総崩れなんてあってはいけません。
しかし、秀吉は「小早川隆景もいるし大丈夫じゃろ」と押し通してしまいます。
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隆景とは元就の三男であり、両川(吉川と小早川)とも言われた名将ですね。
それにしたった無茶振りだろ……。
と、ツッコミたいところですが、秀吉がそう思ったのには、ちゃんとした理由があります。
虫けらが日本代表キャプテンに
秀吉はこのころ、九州・名護屋城で諸将の監督をしておりました。
すると大坂に残してきた母親が危篤であると知らされたのです。
大急ぎで帰路についたのですが、途中、関門海峡「死の瀬」とも呼ばれる難所で船が座礁。
このとき、お供をしていた秀元が小舟を使って秀吉を救助し、しかも二心がない証拠として家臣ともども佩いていた刀を海に捨てたのです。
手際の良さと気配りようを秀吉は覚えていて、必ず良い武将になると見込んだのでした。
ご指名を受けた秀元は、初陣にも臆せず渡海します。
そこで見事に総大将をやってのけ、諸将を勝利に導きました。
見立てが当たった秀吉は当然ご満悦です。
「良い子の秀元にはワシの養女と領地をやろう。これで親戚じゃぞワハハハハ」と嫁までプレゼントしてくれました。
秀元はこうして、毛利本家とは別に一目置かれるようになったのです。
※慶長の役でも宇喜多秀家と共に8番隊を率いておりました
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