歌川国輝『仮名手本忠臣蔵』より/wikipediaより引用

江戸時代

将軍様お膝元の江戸城で七度も勃発していた!切った張ったの刃傷事件全まとめ

「最近の高齢者はキレやすい」と言われていますが、江戸時代の武士もなかなかです。

政治とは関係ないところなので、あまり教科書で取り上げられないだけで、赤穂浪士以外にもいくつか事件が勃発。

文政六年(1823年)4月22日は、江戸城で【千代田の刃傷(にんじょう)】と呼ばれる殺傷事件があった日です。

当時は江戸城のことを「千代田城」とも呼びましたので、そこからきた呼び名ですね。

 


数十年のスパンでしょっちゅう起きている

千代田の刃傷は、事件自体が実に単純なものです。

5行でマトメましょう。

・松平忠寛という旗本が

・職場の先輩にイビられ続け

・先輩三人をブッコロし

・二人に怪我を負わせ

・最後は自害した

殺しまではやらないにせよ、現代にも通じそうな怨恨事件ですね。

「命よりも名誉が大事」な武士の時代とはいえ、凄まじい結果。

仮に相手が武器を持ってなかったとしても5人を相手になかなかできるもんじゃありません。

忠臣蔵のお芝居でも「殿中でござる!!」と言われているように、本来であれば江戸城の中で帯刀していること自体がおかしいはず。

まぁ、何らかの方法で潜り抜けたんでしょうけど、日頃、どれだけのイジメがあったのか。想像すると恐ろしいですね。

実はこういった事件、江戸城内では少なくありません。

忠臣蔵こと元禄赤穂事件や千代田の刃傷と合わせて実に七件。

しかも「幕府黎明期に集中していた」とか「幕末の混乱の中で」といった傾向はなく、20~60年ぐらいの一定スパンで発生しています。

今回は、被害者・加害者のプロフィールと共に、それぞれの事件を簡単にお話していきましょう。

大体の場合は【加害者の名前】が事件の通称になっています。

 


①寛永五年(1628年)8月 豊島明重事件

被害者:井上正就(老中)

若い頃から徳川秀忠に仕え、大坂夏の陣にも参加していた人です。

45歳のとき横須賀藩主となり、老中の職にもつきました。

しかし、嫡子・正利と大坂町奉行・島田直時の娘の縁談を進めている途中で、春日局から別の縁談を進められ、島田家との話を帳消しにしてしまいます。

この島田家との縁談の仲人をしていたのが、豊島明重という旗本です。目付の役目にもついていましたので、それなり以上の面子があるわけです。

「縁談を断ったのは春日局のせいだ!」ということを知っていたのかどうかはわかりませんが、明重はひどく正就を恨みました。

そして、ある日、正就と江戸城西の丸でたまたま出会ったときに、ブッコロしてしまったというわけです。

明重もその場で自らの腹に脇差しを突き刺し、止めに入った別の武士も巻き添えを食って亡くなったといいます。可哀想すぎる……。

当時の慣習としては、豊島家とその一族も連座になるはずでした。

しかし、老中の一人・酒井忠勝が「遺恨を果たしてとはあっぱれ」と捉えたことで寛大に処分されました。

明重の嫡子・吉継を切腹させるだけに留めています。

吉継からすればたまったものではありませんが、他の親戚に累が及んでいないことを考えると、かなり軽い処分です。

※以下は切腹の関連記事となります

しかし、当事者に近い島田直時が自責の念にかられ、自ら腹を切ったといわれています。

この件について春日局の反応は記録されていないようなのですが、いったいどう思っていたのでしょうね。

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