「最近の高齢者はキレやすい」と言われていますが、江戸時代の武士もなかなかです。
政治とは関係ないところなので、あまり教科書で取り上げられないだけで、赤穂浪士以外にもいくつか事件が勃発。
文政六年(1823年)4月22日は、江戸城で【千代田の刃傷(にんじょう)】と呼ばれる殺傷事件があった日です。
当時は江戸城のことを「千代田城」とも呼びましたので、そこからきた呼び名ですね。
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数十年のスパンでしょっちゅう起きている
千代田の刃傷は、事件自体が実に単純なものです。
5行でマトメましょう。
・松平忠寛という旗本が
・職場の先輩にイビられ続け
・先輩三人をブッコロし
・二人に怪我を負わせ
・最後は自害した
殺しまではやらないにせよ、現代にも通じそうな怨恨事件ですね。
「命よりも名誉が大事」な武士の時代とはいえ、凄まじい結果。
仮に相手が武器を持ってなかったとしても5人を相手になかなかできるもんじゃありません。
忠臣蔵のお芝居でも「殿中でござる!!」と言われているように、本来であれば江戸城の中で帯刀していること自体がおかしいはず。
まぁ、何らかの方法で潜り抜けたんでしょうけど、日頃、どれだけのイジメがあったのか。想像すると恐ろしいですね。
実はこういった事件、江戸城内では少なくありません。
忠臣蔵こと元禄赤穂事件や千代田の刃傷と合わせて実に七件。
しかも「幕府黎明期に集中していた」とか「幕末の混乱の中で」といった傾向はなく、20~60年ぐらいの一定スパンで発生しています。
今回は、被害者・加害者のプロフィールと共に、それぞれの事件を簡単にお話していきましょう。
大体の場合は【加害者の名前】が事件の通称になっています。
①寛永五年(1628年)8月 豊島明重事件
被害者:井上正就(老中)
若い頃から徳川秀忠に仕え、大坂夏の陣にも参加していた人です。
45歳のとき横須賀藩主となり、老中の職にもつきました。
しかし、嫡子・正利と大坂町奉行・島田直時の娘の縁談を進めている途中で、春日局から別の縁談を進められ、島田家との話を帳消しにしてしまいます。
この島田家との縁談の仲人をしていたのが、豊島明重という旗本です。目付の役目にもついていましたので、それなり以上の面子があるわけです。
「縁談を断ったのは春日局のせいだ!」ということを知っていたのかどうかはわかりませんが、明重はひどく正就を恨みました。
そして、ある日、正就と江戸城西の丸でたまたま出会ったときに、ブッコロしてしまったというわけです。
明重もその場で自らの腹に脇差しを突き刺し、止めに入った別の武士も巻き添えを食って亡くなったといいます。可哀想すぎる……。
当時の慣習としては、豊島家とその一族も連座になるはずでした。
しかし、老中の一人・酒井忠勝が「遺恨を果たしてとはあっぱれ」と捉えたことで寛大に処分されました。
明重の嫡子・吉継を切腹させるだけに留めています。
吉継からすればたまったものではありませんが、他の親戚に累が及んでいないことを考えると、かなり軽い処分です。
※以下は切腹の関連記事となります
しかし、当事者に近い島田直時が自責の念にかられ、自ら腹を切ったといわれています。
この件について春日局の反応は記録されていないようなのですが、いったいどう思っていたのでしょうね。
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