池田屋事件

近藤勇/wikipediaより引用

幕末・維新

池田屋事件で新選組の近藤や沖田が突入!攘夷派の志士たち30名を排除す

元治元年(1864年)6月5日は、池田屋事件があった日です。

一体どんな事件だったのか?

そう問われたら、幕末や新選組が特にお好きな方でない限り、

「京都でドタバタして、たくさんの人が死んだ事件……」

ぐらいのイメージかもしれません。

あるいは、

・時代が幕末
・舞台が京都

ということで「坂本龍馬が暗殺された事件でしょ?」と思っている方もいるようです。

残念、そいつは近江屋事件だ。

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てなわけで、まずは当時起きた有名な【◯◯屋事件】を以下にマトメておきますね。

【幕末の◯◯屋事件リスト】

寺田屋事件(1862年)……薩摩藩内での内輪揉め

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◆池田屋事件(1864年)……長州&土佐 vs 新選組←今日ここ

◆寺田屋事件(1866年)……伏見奉行が坂本龍馬を襲撃・龍馬逃げる

◆近江屋事件(1867年)……坂本龍馬が暗殺される

ちなみにこの池田屋事件、当事者となった新選組の近藤勇は【洛陽動乱】という実に中二びょ……ゲフンゴホン、カッコイイ名前で呼んでいたそうです。

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洛陽とは中国の都市のひとつで、度々首都になったこともありました。

京都は中国の都市をモデルにして区画割をしていましたので、いつしか京都の雅称として「洛陽」という言葉を使うこともあったというわけです。

話が逸れました。

それでは池田屋事件のあらましを追っていきましょう。

 

御所に火を放ち天皇を誘拐する計画だって!?

まずは当時の日本がどんな感じの世情だったかをつかむことが大切です。

ものすごく端折ると「尊皇攘夷派と佐幕派が京都でお互いにメンチ切ってた」という感じになります。

実際はにらみ合うじゃなくて【八月十八日の政変】という出来事も起きてるんですけども。

この事件を契機に、尊皇攘夷派だった長州藩が京都から追い出され、佐幕派が主流になりました。

そんなわけで尊皇攘夷派は何とかして政局に返り咲くべく暗躍し、佐幕派は佐幕派でそういった人々を血眼になって探していたのです。もうこの時点で血なまぐさいニオイがぷんぷんしますね。

そして元治元年の5月、佐幕派一角・松平容保の配下である新選組は、四条寺町で道具屋を営む枡屋喜右衛門からカギとなる情報を得ました。

なんと、京都の中に尊皇攘夷派の一団が潜んでおり、物騒な計画を立てているというのです。

計画の中身は「御所に放火した後どさくさに紛れて佐幕派をブッコロし、孝明天皇を長州へ誘拐する」(超訳)というものでした。

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これだけヤバイ話なので、情報源となった枡屋喜右衛門もなかなか口を割らず、土方歳三が拷問をして吐かせたそうです。

一体、何をしたんでしょうね……怖い。

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江戸時代は刑罰とか拷問のレパートリーが豊富かつ残酷で、なにも新選組だけがやっていたわけではありません。

拷問の具体例は控えますので、ご興味のある向きは各自書籍等でお調べくださいね。

 

沖田や永倉、藤堂など新撰組のスターが登場

京都市中で警察の役割を担っていた新選組。

この物騒な計画を阻止するために調べを進めます。

そして6月5日も方々を探していたところ、池田屋という旅館がアヤシイと気付き、近藤たちが押し入ることにしたのです。

当日、夜の10時ごろ。討ち入りが始まりました。

池田屋に集まっていた長州や土佐の者たちは約30名。

対する新選組も約30名。

人数については諸説あり、屋内へ突入した人物が誰か?という点についても定かではありませんが、近藤勇・沖田総司永倉新八・藤堂平助の四人はほぼ確実なようですね。

他の新選組メンバーは、池田屋から飛び出してきた逃亡者を捕縛する役目でした。

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突入した四名のうち、最初に敵を斬ったのが沖田でした。

しかし、猛暑による疲労から意識を失って戦線離脱。慌てて逃げる敵を近藤・永倉・藤堂の3人で襲いかかっていきます。

天井にぶら下がっていた「笠行灯」の光で、相手を見失わないで済んだ――という生々しい記録も残っています。

かくして新選組は攘夷派を徹底的に追い詰めました。

応戦して斬殺された者はもちろん、池田屋から逃げたはいいものの追いつかれた者、即死はしなかったものの後日このときの傷が元で死んだ者、捕縛されて後々処刑された者まで、多くの攘夷志士が命を落としました。

特に長州藩にとっては高杉晋作久坂玄瑞と並び称される吉田稔麿(としまろ)を失ったのは痛手だったでしょう。

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事件の終了時点では7名が斬殺され、23名が捕縛となりました。

当初は「この場で全員ブッコロ!」の予定だったそうですが、後から新選組の援軍が来て余裕ができたため「一応生かして捕まえとけ」と変更されたのだとか。

前者のままだったらもっと死人が出てたでしょう。いずれにせよ、この事件の結果……。

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