白石正一郎

現在は下関市長府松小田に移築されている、白石正一郎邸「浜門」/photo by Heartoftheworld wikipediaより引用

幕末・維新

西郷や高杉が頼りにした尊皇商人・白石正一郎は新政府に見捨てられ

幕末は、国の将来を憂いた武士たちが、熱く命を燃やした時代――そんなイメージがおありでしょう。

これは半分正しく、半分間違いかと思われます。

というのも武士以外の公家、大奥の女性、遊女、町人、商人、侠客、火消し相撲取り、豪農……ありとあらゆる階層において、魂を燃やした者たちがおりました。

例えば相楽総三などはその一例ですね。

彼らの存在、残念ながら現代では、往々にして忘れ去られがちです。

しかし確実に存在した。

しかも当時の志士たちに強い影響を与えた者も……。

本日はその一人、西郷隆盛高杉晋作と密接な関係にあり、明治13年(1880年)8月31日に亡くなった白石正一郎にスポットを当ててみたいと思います。

※以下は相楽総三の生涯まとめ記事となります

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西郷も絶賛した人柄

安政4年(1857年)。

長門国は清末藩の廻船問屋「小倉屋」を薩摩藩士の西郷隆盛が訪れました。

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清末藩は、長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩、つまりは長州藩の孫藩となります。

しかしそこは交通の要衝で地の利に恵まれたところでもあり、裕福な商家・小倉屋は、米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等……扱わないものはないと思われるほどの規模で商売を続けておりました。

この商家に、なぜ西郷はやって来たのか?

ただの金策ではありません。

「小倉屋」の主人である白石正一郎は、儒学、そして鈴木重胤から国学を学んでおりました。商家でありながら白石は、尊皇攘夷思想に目覚め、国を憂う人物であったのです。

白石と話し合った西郷は、一昼夜語り合い、その人柄にすっかり惚れ込みました。

文化9年(1812年)生まれの白石は、文政10年(1827年・新暦で1828年)生まれの西郷よりも一回り以上の年上。

まだ若い西郷にはない、年齢にふさわしい知的な落ち着きのある人物であったのです。

 


尊王攘夷派志士のほとんどが小倉屋へ

温和で、国学に親しみ、率直で、語り口はおもしろく、品がよい。なんとも素晴らしい人だ――。

西郷が、そう感じるほどですから、白石のところには他にも志を同じくする者が出入りするようになりました。

下関を通る尊王攘夷派の志士は、ほとんどが小倉屋に立ち寄ると言われたほどです。

ざっとメンバーを挙げますと……。

とまぁ、錚々たる人物たちで、そうした人々を白石はよくもてなしました。

土佐藩を脱藩した坂本龍馬が、しばらく身を寄せていたことすらあるほどです。

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かような状況ですから、白石邸に出入りしたこうした志士は400名を超えるとも言われ、いわば幕末ナンバーワンの尊皇攘夷派パトロンでした。

白石は気前よく私財をなげうち、彼らをもてなしたのです。

 


高杉に惚れ込んで

西郷と懇意になった白石は、薩摩藩との交易を積極的に行うようになりました。

そんな小倉屋を、人々はいつしか「薩摩問屋」と呼ぶようになります。

兄・正一郎にかわって、弟の廉作が何度も薩摩に足を運びました。

安政5年(1858年)にはじまり、万延元年(1860年)と文久元年(1861年)。

三度の訪薩において、廉作は藩から手厚いもてなしを受けました。

財産を費やして志士をもてなし、支援するだけではなく、交易もしっかりと行っていたのです。

商才のほども見て取れるでしょう。

そんな白石ですから、お膝元の長州藩の目に留まらないワケがない。

惚れ込んだのが、高杉晋作でした。

高杉晋作/wikipediaより引用

二人が出会ったとき、白石は52才で高杉は25才。息子ほど歳の離れた高杉に、白石は大きな可能性を感じました。

「俺の編成する新たな隊は、寡兵でもって敵の虚を衝き、神出鬼没で敵を悩ます。そういうものになる」

そう不敵に言い切る高杉に、白石はビビビッと来るものを感じたのです。

この男なら、封建的な国を変えることができる――。

かくして文久3年(1863年)白石は、高杉が組織した「奇兵隊」に弟・廉作とともに参加。彼は会計方として、資金と自邸を提供しました。

吉田松陰のもとで久坂玄瑞と共に麒麟児として知られた高杉晋作。

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その奇兵隊というだけあって、あっという間に人は集まり、60名あまりにまで膨れあがります。

奇兵隊/wikipediaより引用

こうして集まった60名に対して、白石の使用人たちは朝夕酒食を提供し、丁寧にもてなしました。

いかに高杉晋作といえども、先立つ資金がなければどうしようもありません。

白石の貢献がいかに大きいものであったか、そして彼がどれだけ高杉に期待していたのか、わかろうというものです。

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