大河ドラマ『麒麟がくる』で石川さゆりさんが演じていた光秀の母・お牧の方。
史実面から見ると非常に謎多き女性です。
そもそも明智光秀からして確かな出自や前半生はほとんど伝わっておらず、光秀の父親にしても「明智光綱かもしれない……」という程度の認識。
ドラマでは重要な役どころだった光秀の叔父・明智光安(西村まさ彦さん)も、記録という面はかなり危ういですが、それでもやはり光秀の母ともなれば、一体どんな女性だったか?気になるところではありますね。

お牧の方イメージ/絵・小久ヒロ
周辺情報やエピソードから、可能な限りの人物像に迫ってみましょう。
お牧の方は若狭武田氏の出身?
前述のとおり、お牧の方の生涯を語ることは残念ながら不可能です。
生前における活躍は全く史料に残されておりませんし、言ってしまえば実在したかどうかさえ不明。
一応、出自を確認できる史料としては、江戸時代後期から編纂が行われた『続群書類従』に収録されている『明智系図』が挙げられます。
ここで、お牧の方は若狭国の守護・若狭武田氏の一族出身であると記され、彼女の兄にあたる人物が武田義統でした。
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若狭武田氏は、皆さんもよくご存じ武田信玄の甲斐武田氏の分家です。
もし本当に光秀の母が若狭武田氏の出身であれば、光秀も十分に名族の系譜に位置づけられます。
ところが、この『明智系図』という史料がキツい。明らかに不審な点がいくつも存在します。たとえば……。
同史料によると、光秀の出身年は享禄元年(1528年)とされています。
しかし、お牧の方の兄、つまり光秀の伯父にあたる武田義統の出身年は大永6年(1526年)です。
伯父と甥がわずか2歳差なんて、さすがに1000%ありえませんよね。
もちろん「武田義統の出身年が間違っているかもしれない」「光秀はもっと後年に生まれたハズ」などのケチをつけることはできますが、それはそれで彼女の実在を裏付ける『明智系図』の信ぴょう性を否定し、結局はどうにもなりません。
要は「お牧の方が光秀の母である」ということを証明できる術がないのです。
光秀と若狭武田氏の意外な関係
ではなぜ、このようにアヤシイ系図が作られることになったのか。
それは「光秀と若狭武田氏を結び付けたかった」と説明できるかもしれません。
武田義統の息子にあたる武田元明は、国力の低迷に抗いきれず朝倉氏に屈し、若狭武田氏再興の時を待たなければなりませんでした。
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織田と敵対した朝倉氏は、信長包囲網に参加して没落していきますが、信長は、奪い取った若狭の地を従来の領主・武田元明に返そうとはしませんでした。
しかし、天正10年(1582年)に【本能寺の変】が勃発して信長が討たれると、「お家再興のチャンス!」とばかりに元明は、勢力回復を目指して光秀に味方します。
彼は意気揚々と近江へ侵攻していったのですが……。
光秀は、豊臣秀吉を相手にした【山崎の戦い】で敗死。
「やってしまった!!!」とばかりに元明は、慌てて秀吉に恭順しようとしましたが、そんな都合のよい申し出が許されるはずもなく、秀吉に殺害されたとも、自害したとも伝わります。

絵・富永商太
この本能寺の変をめぐる一連の関係性から、
【光秀は若狭武田氏の出身で、その縁から元明は彼に従った】
という言説が生まれ、それが系図に反映された可能性があります。
むろん「光秀が若狭武田氏の出身だから、元明が彼に従った」という可能性を完全に否定することはできません。
ただ、私としては「いかにも江戸人が好きそうな人情物語」だと感じ、史実でないほうが自然に思えます。
そもそも光秀の母は別の人物?
さて、ここまでは「系図の信ぴょう性はともかく、一応、お牧の方が光秀の母親」という前提で記事を書いてきました。
しかし、他の系図を参照すると、別の女性を光秀の母としている史料に出会います。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』です。
同書によると、光秀の父は進士信周(しんじのぶちか)という幕府奉公衆の人物で、母の正体は、通説で光秀の父とされている明智光綱、その妹だというのです。
お牧の方が若狭武田氏の出身であるということは、この「光綱妹」なる女性とは別人ということになります。
ちなみに同史料では、40歳を過ぎても子宝に恵まれなかった光綱に対し、彼の父である明智光継が「光秀を光綱の養子として定め、明智家を継がせた」と説明されています。
幕府奉公衆と土岐明智氏の関係が深いというのは一定の信ぴょう性があるので、個人的にはこちらの出自もアリではないか?とも感じます。
ただし、大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場人物の一覧にはお牧の名前がクレジットされていました。
いわゆる歴史ものの創作でこちらの説が採用されることはほとんどないのではないかと思います。
信長の判断で殺害された?
お牧の方の生涯は不明ながら『総見記』という史料に有名なエピソードが一つ掲載されております。
それは明智光秀が丹波の攻略を織田信長に命じられ、八上城を攻撃していた際のこと。
波多野秀治ら波多野三兄弟が籠る八上城を開城させるため、光秀は次のように提案しました。
「開城してくれれば三兄弟の身の安全は保証しよう。私の意思を証明するために、母(お牧の方)を人質にする」
この言葉を信用した三兄弟は程なくして投降します。
しかし、光秀の意思とは裏腹に、信長は安土で彼らの処刑を命じるのです。
約束を違えられたことに激怒した波多野遺臣らは即座にお牧の方を殺害。最後の抵抗として城外に繰り出し、ことごとく討ち死にした――。
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自身の母を人質にしているということは、当然信長の耳にも入っていたハズ。
にもかかわらず無慈悲な処刑を敢行した信長を恨み、光秀が【本能寺の変】を引き起こした一因になったと「怨恨説」の裏付けとして説明されることも多い出来事です。
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内容だけを読めば「やっぱり信長は冷酷な魔王だったのか……光秀かわいそう……」と同情したくなりますし、本能寺の変の動機としては十分なようにも思えます。
しかし、そもそも論として「このエピソードは本当なのか?」という点を検証しなければなりません。
そもそも人質を出す必要はあったのか?
結論から申し上げます。
「お牧の方が人質に出され、信長の意向が原因で殺害された」というエピソードは【創作の可能性が極めて高い】と考えられています。
根拠を見ていきましょう。
まず「母を人質に出さなければならない状況」ですが。
それは背景に「なんとか開城させなければならない事情があった」ということに繋がるはずです。
つまり、光秀が【八上城(やかみじょう)の攻略に手間取っていた】という証拠があれば、母を人質に出すしかなかった心情も説明できます。
しかし、当時発給された光秀関連の書状や『信長公記』の記述を見る限り、光秀が八上城の攻略に苦しんでいた様子が全く見えてこないのです。
確かに波多野三兄弟は比較的長く籠城していたものの、光秀に兵糧攻めされており、それを打開できる策はなく、いわゆる「ジリ貧」状態に陥っておりました。
これには光秀サイドも楽観的な見方をしており、周辺勢力の間でも「丹波攻めは順調に進んでいるらしい」という風評が流れるほどです。
わざわざ母親を人質に出さなければならない理由は見当たりません。
信長研究で高名な専門家たちも辛辣
また「母が人質になるという条件で開城した」という波多野氏側の態度も、当時の実像とは大きくかけ離れたものです。
光秀による兵糧攻めで城内は餓死者が続出。
それでも波多野秀治は徹底抗戦の構えを崩しません。

波多野秀治/wikimedia commons
城から逃げようとする者があれば容赦なく切り捨て、かといって降伏勧告にも応じず、支城が陥落しても戦い続けていたのです。
これだけ強固な意志を有していた秀治が、果たして敵将の母が人質になるという理由で降伏に応じるでしょうか?
極めつけは、このエピソードが記載されている『総見記』という史料自体、歴史学的にはかなり価値の低い代物である点が挙げられます。
なんせ本能寺の変勃発から100年以上が経過して誕生した史料であり、脚色や創作が加えられているだけでなく、非常に誤りが多いと手厳しく批判されているのです。
やはり創作の可能性が高い同エピソード。
信長研究で高名な専門家たちの意見も辛辣で、ご著書の中で触れられております。
谷口克広氏「事実でないことははっきりしている。研究家にしても1950年以降は、この話を変の動機として採用する者はいない」
渡邊大門氏「まったくの創作であり、史実とは認めない」
もはや【完全否定】で結論づけられているんですね……。
万が一、新史料などが見つかれば話は変わってきますが、現状ではその可能性は低そうです。
★
・唯一伝わる人質の逸話すら創作
・そもそも光秀の母かすら定かではない
まるで雲を掴むような存在のお牧の方。
大河ドラマ『麒麟がくる』がキッカケで、何か新しい史料でも見つかることを待つしかなさそうですが、今の所これといった発見は報じられておりません。
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【参考文献】
『国史大辞典』
谷口克広『検証 本能寺の変(吉川弘文館)』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)






