「本能寺の変」での小栗旬さんの熱演が話題になった、大河ドラマ「豊臣兄弟!」。
信長が森乱(森蘭丸)に「わしの首…決して敵の手に渡すでないぞ」と言って、自害する様子が描かれました。
ここから、秀吉の備中大返し、そして、秀吉と光秀が激突する山崎の合戦、そして羽柴/豊臣の天下へと一気に歴史が動いていくわけですが、そもそも森乱に託された信長の首は、どこへ行ったのか。
信長や息子の信忠の死体は焼き跡から見つからなかったというのが通説ですが、「実は光秀が供養をしていた」と述べるのが窪寺伸浩さんです。

明智光秀/wikimedia commons
あさ出版から新刊『光秀と秀吉の十五年軍記』を発売するなど、光秀に関する著作を数多く出版している、窪寺さんの寄稿を以下ご覧ください。
光秀は本能寺の変後、自害しようとした
「信長父子の悪虐は、天下の妨げ、打ち果たすし候」
これは、本能寺の変の直後、明智光秀が各地の武将へ送った書状の言葉です(『武家軍記』など)。
「天下の妨げ」とは「天下」つまり万民の妨げの意味であって、信長が万民のための政治を行わないので、自分が天下万民の意志=民意を体して、信長を討ったと宣言しているわけです。
このように自らを正当化する一方で、光秀の死後から100年以上たって江戸時代に書かれた『明智軍記』では、光秀の複雑な心情が描かれています。
なお、『明智軍記』は、一般には歴史的資料としての価値が低く、内容の信憑性も疑われていますが、私は必ずしもそうは思わない立場です。
詳しくはこちらをご覧ください。
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光秀の生涯を描いた唯一の書物『明智軍記』には何が書かれている?
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実は、信長を討った後、光秀は自害を試みたことが『明智軍記』巻九では描かれています。
光秀は、信長に対して君臣の道を明らかにするため自害を、今まさにしようとして辞世の言葉をしたためているのを寺の小僧に見つかり、老臣たちに告げられるのです。
『明智軍記』では、義が不義を討つのは、歴史の必然であると老臣たちに進言され、光秀は自害を思いとどまり「天下安全ノ御仕置」を始めます。
信長らの供養を依頼する光秀
ですが、それでもなお光秀の中には矛盾があるようです。
『明智軍記』には次のような記述があります(現代語訳・補足は著者)。
「阿弥陀寺の清玉(面誉)上人は、織田信長公とその息子(信忠)とも顔なじみの住職であったが、明智光秀(日向守)とも親しく交際していた。
そのため、(本能寺の変の直後、清玉上人は光秀から本能寺への)立ち入り許可を得て、『織田殿をはじめ、亡くなられた方々の遺骸を引き取り、隠して(手厚く)葬りたい』と願い出た。
光秀も、謀反を起こしはしたものの、さすがに主従の情誼(長年仕えた主君への情)から心が痛んだのだろうか。
(清玉上人の願いを聞き入れ、)『敵味方や身分の上下を問わず、昨日と今日討ち死にした者たちには戒名を授け、過去帳に記録して、念入りに供養しなさい』と言って、砂金二包みを面誉(清玉上人)に与えたのである」『明智軍記』巻九より
あえて光秀が追い腹を斬ろうとしたり、供養を依頼したりするのは、天下のために殺した悪君に対しても忠意を示す善臣という図式をつくるためであるとともに、光秀が敵味方を区別せず、法名を与え供養するという、慈悲の心を持つ、有徳の武人として描かれています。
そして、この記述からは、信長の首(遺骸)は光秀のもとにあったことがうかがえます。
実際、この阿弥陀寺の件は歴史的事実であったようです。
光秀滅亡後、羽柴秀吉が、信長の骨を阿弥陀寺の僧侶に引き渡すことを求めた際にそれをかたくなに断ったという逸話が、阿弥陀寺に伝わる寺伝をまとめた『信長公阿弥陀寺由緒之記録』に残っているからです。
これは、光秀の信長に対する供養の思いを大切にしたからともいえるでしょう。
光秀の首をさらした秀吉――その差が意味するもの
光秀が、信長や信忠の首を、人々のさらし者にしなかった一方で、秀吉は、山崎の合戦後、光秀の首を京にさらしました(『兼見卿記』)。
これは光秀と秀吉の二人の心に大きな差があった、としか言いようがありません。
そしてそれ故、前述のように、阿弥陀寺は、新たな権力者である秀吉の意に反して、信長の遺骨を引き渡さなかったのではないでしょうか。
このエピソードに限らず、光秀を討ち滅ぼした秀吉は、その後も光秀の「原像」(光秀が象徴していたもの)と実は対峙をしていたのではないかと私は考えています。
そちらについては私の史論『光秀と秀吉の十五年軍記』にまとめられています。よろしければご覧ください。

『光秀と秀吉の十五年軍記』(→amazon)
あわせて読みたい関連書籍
- 窪寺伸浩『異聞・光秀に成り損ねた男たち』(2025年8月 あさ出版)
- 窪寺伸浩『明智光秀の原像~史論としての『明智軍記』』(2019年11月 あさ出版)

