足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)/織田信長と共に上洛しながら、その後、対立。一人京都を追い出された室町幕府最後の15代将軍、その生涯を描く

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)/wikipediaより引用

足利家

足利義昭の生涯|信長と共に上洛し一人京を追い出された 室町幕府最後の15代将軍

2024/11/12

天文6年(1537年)11月13日は足利義昭が生まれた日。

ご存知、室町幕府の15代将軍であり、そもそもは12代将軍である足利義晴の次男として誕生しました。

母は近衛尚道(ひさみち)の娘で、義昭はその後、近衛種家(たねいえ)の猶子となると大和(奈良県)の興福寺へ向かっています。

しばらく僧侶生活を続けていたのですが、永禄8年(1565年)に兄の13代将軍・足利義輝が【永禄の変】で殺害されると、義昭自身の身に危険が及んで寺を脱出、以降は将軍就任を目指すための浪生活を続けた方です。

まさに苦難の前半生。

その頃は、おちおち家に帰ることもできなかったことが大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれてましたね。

兄を殺害した連中が京都にいて、危険極まりなかったからです。

そこで義昭は、あっちこっちの大名を頼りまくり、断られ続け、最終的に行き着いたのが、岐阜城に本拠を移したばかりの織田信長でした。

上洛後、晴れて将軍となるわけですが、義昭は一体どんな生涯を送ったのか。

足利義昭の肖像画

足利義昭/wikipediaより引用

室町幕府、最後の将軍の行く末を見て参りましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

光秀や藤孝の助力を得て

足利義昭と織田信長――二人の橋渡しをしたのが細川藤孝(細川幽斎)や三淵藤英、明智光秀です。

織田信長/wikipediaより引用

フィクションと違い、史実の信長は、決して伝統や権威を頭から否定するタイプではなく、足利義昭の警護として京都への道筋をつけることは心情的に嫌なものではなかったでしょう。

もちろん実利もあります。

美濃(岐阜件)から近江(滋賀県)を通って京都まで、「将軍様のお通りじゃ!」という大義名分と共に進軍することができます。

途中の難敵と言えば六角家でしたが、割とアッサリ進むことができました。

※以下は信長と義昭による上洛関連記事です

足利義昭と織田信長の肖像画
信長と義昭の上洛 46日間の一部始終|信長公記第52話

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室町幕府を再興してくれた信長を「父」と呼ぶまでに

信長の助力でもって、めでたく京都へ戻ることができた義昭。

感謝感激で「褒美は副将軍が良いか? 名門の家督が良いか? 今なら我が家の家紋もおまけするぞよ」(※イメージです)と信長にもちかけます。

これに対して信長は「家紋だけいただきましょう」として、他の地位などは受け取っておりません。

しばらく両者の仲は良好で、足利義昭が京都で襲われたとき、信長は岐阜からわずか二日で駆けつけたこともありました。

男女の仲だったら「エンダアアアアアアアアア」が流れてきてもおかしくなさそうなシチュエーションですね。

ちなみに当時、岐阜から京都までは普通三日かかったらしいのですが、真冬に大雪の中をすっ飛ばして進んだために、信長の配下に凍死者が数人出たそうです。

しかし、京都に残っていた光秀や藤孝らの奮戦により、信長が着く前に戦は終わっていました。

凍死した人が浮かばれなさすぎる。

明智光秀/wikipediaより引用

さらに御所の建物を整備し、名実共に室町幕府を再興させてくれた(ように見えた)信長に対し、足利義昭は「これからは父とも思って遇するぞよ」と言っています。

養子入りしたわけでもないのに、三歳しか変わらない相手を父親扱いというのがスゴイですね。

ところが……。

 

要望書を出されてブチ切れ! 信長包囲網へ

将軍の位に就けば、それだけでホクホクすると思われていたのでしょう。

全国の諸大名に働きかけ、自らの権力を強大化させようとする足利義昭に対し、信長はだんだん焦れてきます。

朝廷も「信長は強いから、義昭に構わず武力を行使して戦乱を治めておk」というお許しを出しており、もはや義昭を大事にしておく必要がなくなったのです。

そこで信長は、義昭に【殿中御掟(でんちゅうおんおきて)】という要望書を出しました。

要望というより命令って感じなんですが。

二回に分けて出されており、だいたいの意味としては「俺(信長)が仕事をしますんで、ちょっと引っ込んでていただけますかね」というものです。

絵・富永商太

最後に「平和になったら儀式をやっていただきますんで、そのときはよろしく」と書いてあるのは、いかにも取って付けたような印象を受けますね。

最初こそ素直に受け入れた足利義昭でしたが、信長からさらに厳しい意見書が出されるとついにブチ切れました。

「もう我慢ならん! 信長を討て!!」

そんな命令を各地の大名に下したのです。

いわゆる【信長包囲網】の始まりですね。

 

京都焼き討ちの噂がたちまち広まり

信長包囲網は、たしかに織田家を窮地に陥れたかのように見えました。

実際、信長自身もかなり肝を冷やしたでしょう。

そこで織田家では冷静に各個撃破を行い、さらに最大の勢力だった武田信玄が1573年に亡くなったことで、包囲網はアッサリ瓦解してしまいます。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

足利義昭は慌てて二条城の戦備を進めますが、その間に信長から「娘を人質として差し上げますので、和睦していただけませんか」と、あくまで低姿勢な申し出がありました。

残念なことに、信長に対して不信感を強めていた足利義昭は、これを拒否。

対する信長の返事は「なら京都を焼きますけどいいんですね^^」(※イメージです)というものでした。こええ。

この噂は瞬く間に京都に広まり、宣教師ルイス・フロイスが

「京都の民は泣きながら家財道具を持って逃げようとしている」(超訳)

と記録しています。

ルイス・フロイス
ルイス・フロイスの生涯|信長をよく知る宣教師の『日本史』には何が記された?

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この時点で、将軍の権威より信長の実力のほうが恐れられていたということですね。

 


御所は焼かずにお仕置きを

そして天正元年の2月、ついに信長は兵を動かしました。

まずは岐阜から琵琶湖までの道を確保して引き上げます。

そのタイミングで足利義昭が「よろしい、ならば戦争だ!」と、松永久秀たちを率いて兵を挙げました。

松永久秀と言えば、その息子の松永久通が自分の兄(足利義輝)を殺した憎き相手のはず。

いわば敵を頼るなりふり構わない姿勢に本気さが見えますが……。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用

それから約一ヵ月後。

信長はいよいよ足利義昭を倒すため京へ向かいます。

布陣が済んだ後、真っ先に朝廷へお金と手紙をわたし、「ちょっと騒がしくなりますがご安心くだされ」と告げております。

また、建前としては足利義昭のほうがエライので、一度は頭を下げて和睦を申し出てもいました。

この辺、本当に信長は律儀というか、優しいというか。戦わなくてもよい合戦は、少しでも経費を浮かすために避けたいんだろうか?とも思ってしまいます。

まぁ、軍事費の管理は非常に大切ですよね。

あるいは京都そのものへの配慮もありそうです。

上記の通り京の住民には「信長に焼け出されるぞー!」ということが知れ渡っていたので、信長へ必死に助けを求めました。

信長は「庶民を巻き込むのは俺の趣味じゃない」と考えてか、下京(しもぎょう・京都の南側)については焼き討ちを中止しましたが、北半分である上京(かみぎょう)は許しませんでした。

上京には幕府に味方する商人などがたくさん住んでいたからです。

これについてもフロイスが「最後の審判の日が来たかのようだ」と書き残しています。

当時の御所は上京の北寄りにあったのですが、よくこれで御所が焼けなかったものですね。

この後、ときの皇位にあった正親町天皇が和睦するよう双方に命じていますので、たぶん御所ごと無事だったんでしょう。

正親町天皇/wikipediaより引用

余談ですが、信長でさえここまで気を使った御所に鉄砲ぶちこんだ幕末の長州藩ってやっぱりぶっ飛んでますね(禁門の変)。

 

槇島城で陥落 息子を人質に出して生き永らえる

一旦は和睦した両者。

しかし、根本的な原因は1ミリも解決しておりませんので、京都周辺で再び戦になります。

足利義昭は二条城を家臣に任せ、自分は槙島城(まきしまじょう/現・京都府宇治市)に篭りました。

が、槙島城は、とても織田軍の猛攻に耐えられるような城ではありません。

そして元亀4年(1573年)7月、打って出た兵は討ち取られ、四方を放火され、絶体絶命に陥った足利義昭は、事ここに至ってようやく降伏します。

槙島城跡近辺の公園内にある槙島城記念碑/wikipediaより引用

嫡男の義尋(ぎじん)まで差出してのことでしたから、もはや将軍の権威も何もあったものではありません。

当時わずか1歳だったこともあってか、信長は義尋を斬りはせず、お寺に預けてそのままにしていたようです。

足利義昭そのものの命については、これを奪うようなことはせず、縁戚の三好義継へ行かせました。

信長の事績を記す『信長公記』(著:太田牛一)によれば、

「義昭を切腹させてもよいが、この判断は後世の批判に委ねよう」

だなんておっしゃられています。

なんだか、信長から直接話しかけられているようで、ドキッとしてしまいますね。

なお、京都を出て行く時の義昭は、市中の人々から「貧乏将軍」と嘲笑されたといいます。

庶民たちも、日頃の将軍の情けなさを感じていたのでしょう。

少なくとも尊敬はされておらず、京都に居場所のなくなった義昭。

顕如(本願寺)の助力を得て、三好義継を頼るのでした……と思ったら、その足利義昭を匿ったがゆえに信長の怒りを買った三好義継はアッサリ潰されてしまいます。

信長と義継は、かつては【互いを助け合う】良好な関係を築いていたのですが、【信長包囲網】のときに三好義継が裏切っており、さすがに今度は許せなかったのでしょう。

 


西日本では毛利や島津が将軍に味方した

三好義継が討たれ、いよいよ畿内に居場所のなくなった足利義昭は、毛利を頼りました。

実は、近畿以西では信長を警戒するのと同時に義昭に味方した大名もいたのです。

代表的なのは毛利家と島津家で、この二家の援助により生活には困らなかった様子。

当主の毛利輝元は天文22年(1553年)生まれですので、このとき21歳になっていました。

毛利輝元/wikipediaより引用

義昭は、毛利家の勢力下にあった、足利家ゆかりの地・鞆(とも)に御所を構えます。

まぁ、信長に認められるまでは放浪も同然の生活をしていた義昭ですから、今さら不便とも思わなかったかもしれません。

教科書上では義昭が京都を去った時点で「室町幕府は滅んだ」とされていますが、秀吉が九州討伐を終えるまでの間は征夷大将軍であり続けたので、足利義昭が鞆で政務をしていた間を指して「鞆幕府」と呼ぶこともあります。

政務が取れる程度の家臣もついてきていたようです。

 

引退後は坊主になって秀吉の御伽衆にも

信長とは敵対した足利義昭でしたが、豊臣秀吉には案外あっさりと天下人の座を譲り渡しました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

一説には、秀吉が九州へ向かう途中で太刀の交換をしてその意思を示したとも言われています。

この間、島津家と秀吉の間を取り持とうとしていた動きも……。ただ単に庇護されていただけではなく、きちんと将軍として仕事をしようとしていたのでしょう。

征夷大将軍の地位から退いた後はすぐにお坊さんになって、

「もう積極的に政治には関わらないよ」

という姿勢を見せたことも、穏やかに暮らせた理由の一つ。

しかも朝廷からは皇后などに次ぐ位である「准三后」を授けられましたから、秀吉も粗略に扱うことはしませんでした。

かつて足利義昭と信長が争った槇島(まきしま)に領地を与え、さらに「前将軍で准三后の人は敬わないとマズイだろ」というわけで、豊臣政権では破格の待遇を受けていたそうです。

秀吉の側近であり話し相手の「御伽衆」にも名を連ねていたり、朝鮮出兵のときも渡海はしなかったものの名護屋までは行っていたり決して冷遇されていたわけではないのですが……。

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸

 


葬儀を行うのはチート細川しかおらず

60歳を超えて従軍――そんなハードワークをこなしていたためか、その年のうちに足利義昭は亡くなってしまいます。

慶長2年(1597年)8月28日のことで、享年61。

このとき、秀吉は義昭の葬儀を積極的にはやっておりません。

なぜかというと「前将軍として葬らなきゃいけないけど、儀式のやり方を知ってる人がウチにいない」という何ともおマヌケな理由。

あっちこっちに問い合わせて、ようやく白羽の矢が立ったのが細川藤孝(細川幽斎)でした。

彼は文武両道にも程があるとしか言いようがない教養人でしたし、代々室町幕府に仕えていた家の人ですから、当然儀式などにも強いわけです。

かつては、京都から逃げ回って信長のところに落ち着くまでの義昭と一緒に放浪生活をしていたこともありましたので、まさにピッタリの役どころだったかもしれません。

細川藤孝(細川幽斎)/wikipediaより引用

しかし「葬儀をやるのは構いませんが、ウチにそんなお金はないんですけど……」という状態。

腐っても鯛ならぬ死んでも前将軍ですから、形式を整えてきちんと葬儀をするには莫大なお金がかかります。

細川家だけでそんな資金が出せるはずもなく、足利義昭にずっと従っていた家臣たちが方々に頼み込んでやっと葬儀をすることができました。

それも必要最低限の物を揃えるのが精一杯で、前将軍の葬儀としてはとても寂しいものだったそうです。

秀吉が「ならワシが出してやろう」と言ってくれれば、名実ともに立派な葬儀ができたはずなんですよね。

慶長の役(朝鮮出兵の後半戦)の最中でお金が惜しかったのかもしれませんが。

ここから逆算すると、やはり秀吉が信長の葬儀をハデに執り行ったのはパフォーマンスの面が強かったのでしょう。

対して、義昭の場合は既に後継者もなく、滅びたものとして世間に認識されていましたから、「死んでまで特別扱いしなくてもいいだろ」と思っていたのかもしれません。

戦国を見事に生き抜いた義昭にさほどの非はないはずなんですが……。

死人に口なしとはいえ、ちょっと可哀相な気がしてきます。

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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
槇島城の戦い/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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