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【槇島城の戦い】
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将軍義昭による対織田家の戦略とは!?
元亀4年(1573年)2月。
義昭は南近江の一向一揆を糾合して軍事力を増強します。
足利義昭の大戦略は、武田信玄と共に東西から織田家を挟撃することです。
そのために信玄の尾張、美濃侵攻開始まで山城国および京都を防衛しなければなりません。
具体的な防衛戦略として、義昭は京へ通じる2つのルートを城郭を築城することによって遮断します。
それが石山城(砦)と今堅田城(砦)です。
石山城は古来より京都防衛の要衝である瀬田の渡し付近の伽藍山もしくは大平山(諸説あり)の山頂に築城されました。
一方、今堅田城は坂本城の北、ちょうど琵琶湖の両端が狭くなっている場所に築かれた湖城です。
これは信長自慢の佐和山城―坂本城の琵琶湖水運のルートを遮断し、坂本城を孤立させることができます。
以下の坂本城の記事で、
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坂本城は琵琶湖ネットワークの要所 そして可成は見事な戦死を遂げた
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坂本城の築城が京都防衛を永遠に確立させたと書きました。
しかし、義昭と対立した今となっては、京都防衛の要から、京都侵攻への最前線の城となります。
比叡山の仏教勢力無き今、ほぼ無傷で洛中へ侵攻できる絶好の位置にあり、無防備な京の東側面は坂本城でがっちり押さえられています。
義昭にとっては、この坂本城を最初に無効化することで、京都を守りながら近江方面への道を開き、浅井家や朝倉家、そして武田家との連携が可能となるのです。
このように義昭は意外にも【的確な防衛戦略】を敷いています。
ただ単に武田信玄の後詰を待つだけではなく、敵地に突出した要衝に2つの城を築き、陸上と水上の侵攻ルートを阻み、信長の京都侵攻をできるだけ遅らせるという積極的な防衛戦略。
詳細は以下の記事に譲りますが、浅井長政に、少しは見習えと言いたいくらいです。
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対する信長の戦術とは?
義昭の軍事行動に対して信長は、どうしたか?
長光寺城の柴田勝家、肥田城の蜂屋頼隆、佐和山城の丹羽長秀、そして坂本城の明智光秀をすぐさま派遣します。
柴田勝家は、まだ築城中の瀬田の石山城に殺到し、これを手際よく落とします。
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ここは織田軍団の真骨頂、スピードの勝利でした。多少、軍備や陣形が整っていなくても、城が完成するまでのわずかな隙を狙うには、早く取り掛かることこそが重要です。
続いて今堅田城にとりかかります。
今堅田城は、三方を琵琶湖に囲まれた湖に突出した砦で、陸地からの攻撃正面が1つに限定されるため、攻撃側には攻めにくく、守備側には守りやすい城です。
さらに琵琶湖を後背地にしているため、琵琶湖上から舟での補給や退却も可能とする湖城で織田方には苦戦が予想されました。
しかし、信長は既に琵琶湖の活用術を十分に心得ています。
三方が湖なら、「湖から近づけばいいじゃないか!」と発想を転換し、明智光秀に命じて、坂本城から船で出撃させます。
こうして明智光秀が琵琶湖上から船で城に近づき、火を放ち猛攻を加え、今堅田の守備兵は数日で砦を明け渡してしまいました。
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義昭の誤算は、琵琶湖の制水権を信長ががっちり握っていたことでした。
佐和山城と坂本城を結ぶ湖上の進軍及び防衛ルートにくさびを打ち込むという意味では今堅田城の位置は絶妙でしたが、ルートを遮断するには一点では無理です。
義昭には琵琶湖に直線を引くためのもう一点、つまり対岸から後詰めを繰り出してくれる勢力がありませんでした。
これまでのように堅田衆や近江の国人衆が琵琶湖の水運や利権を握っていれば、琵琶湖に突出した湖城を築いても湖からの後方支援を得られたのですが、信長が琵琶湖を取り巻く主要な港湾を押さえている限り、それは望めません。
せめて浅井家の山本山城が管轄するの尾上湊(おのえみなと)あたりから後詰めの援軍は欲しいところでしたが、これも来ませんでした。
湖上ネットワークを築いた信長の先見性
ここで日本の三大湖城について押さえておきましょう。
◆日本三大湖城
坂本城
大津城
膳所城(ぜぜじょう)
すべて三方を琵琶湖に囲まれた、琵琶湖岸の城ですが、時代がそれぞれ織田期、豊臣期、徳川期とずれており、時代によって城の持つ意味も違います。
湖城の絶対条件は、琵琶湖の制水権を同時に有していることです。
坂本の町は元々、近江国中に寺社領を持つ比叡山延暦寺の門前町として栄えた町でした。
ここに坂本城を築城することで、比叡山を越えて京へ向かうルートを確保。
坂本城は最終的に【佐和山城―長浜城―安土城―大溝城】という琵琶湖の東西南北に張り巡らされた防衛網によって琵琶湖側の後方が完璧に守られます。
これによって応仁の乱以降、不安定だった東からの京都防衛の要として機能します。
ここへ侵攻するには坂本城だけではなく、琵琶湖も完全に掌握しなければ京都の東から攻め込むことをほぼ不可能にしました。
このように坂本城は京都への入り口として、そして琵琶湖の航路も押さえる戦略要地としての意味を持つ城でした。
豊臣期の大津城は、琵琶湖の水運と商業地「大津」の港町を城下町に取り込むように築城された城です。
秀吉の天下統一、惣無事令により、近江でおなじみの国人衆同士の利権争いも減っており、特に水運や航路を海賊のような実力行使も辞さない特定の国人衆に押さえられることはなくなりました。
こうなると城と城で水運ルートを保持して、自ら警備する必要はなくなり、物資の集積地、特に最終的に京都へ向かう物資が集まる港町を城によって押さえるほうが支配者にとって重要となってきます。
これが大津の町です。
信長の時代から商業地を取り込む城が各地に築城され始めましたが、秀吉がこれを継承したといえるでしょう。
ちなみに湖城で唯一、戦闘が起こったのが、関ヶ原の戦いの前哨戦である【大津城の戦い】です。
城主の京極高次が突如東軍に寝返り、わずか3千の手勢で1万5千の西軍を相手に大津城で9日間にも渡り引きつけました。
最終的に立花宗茂が高所から大砲を撃ち込んで、同城は開城しましたが、その日がまさに関ヶ原の戦い当日であり、結果的に関ヶ原に向かう西軍の増援を阻むことに成功しました。
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西軍の諸将は、湖城は琵琶湖方面から包囲するというセオリーを踏襲しなかったために多大な犠牲と時間を費やしてしまい、関ヶ原に間に合わなかったのです。
真田昌幸による【第二次上田城の戦い】と同様の戦いが西でも行われていたんですねぇ。
なお、江戸期になると、膳所城(ぜぜじょう)が瀬田の大橋付近に築城され、琵琶湖水運にとって劇的な変化が起こりました。
古来より日本海の北陸や敦賀から京、大坂への物資の輸送ルートとして栄えてきた琵琶湖水運でしたが、江戸期に入り北廻、南廻りの航路が開発され、京や大坂に物資を運ぶのに琵琶湖を必要としなくなったのです。
これにより琵琶湖水運は衰退し、湖城の戦略的意味にも変化が起こります。
琵琶湖水運の利権のうまみも減ると、この地域は水運ルートや港町の防衛よりも江戸と京都を結ぶ街道の防衛の方が戦略的に重要となってきます。
膳所城は、琵琶湖を制する城というより、街道を押さえる城としての役割が大きくなりました。
実際、同城は湖城ながら街道に近い場所に築城され、もはや琵琶湖の制水権を確立するための城ではなく、中山道を押さえる城として位置付けされました。
このように日本三大湖城とひとくくりにされ、すべて琵琶湖に突き出た縄張りという共通点を持ちながら、築城された時代背景が違うために、各城の持つ意味は全く異なるのです。
信長の時代は、まだ浅井家が尾上湊(おのえみなと)などの湖北の港を押さえていて、琵琶湖を巡る勢力圏争いの真っ最中でした。
今堅田に砦を築くという義昭の目の付け所はよかったのですが、肝心の朝倉、浅井の後方支援がなければ湖城は持ちません。
一方で強固な湖上ネットワークを築いた信長の先見の明が光る戦いで、のちの安土城築城のコンセプトにつながるエポックメイキングな戦いだったといえるでしょう。
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