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【長浜の戦い】
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合戦直前に槍の使い方を家臣に教わっただと!?
しかし、よくこの状況で、散々「か弱い」と言われていた長男を大事な戦いに初陣させる気になったものです。
21歳というのは初陣としてかなり遅いほうです。
永禄三年(1560年)5月26日、国親は長宗我部家から見て本山領との境界にある長浜城(現・高知県高知市)を攻め始めました。
ゆえに【長浜の戦い】と呼ばれるんですね。
戦いは決して簡単ではありませんでした。
城兵の士気が高く、長宗我部軍は一時苦戦します。
そこで国親は、城門を修繕するために呼ばれた職人をこっそり買収し、さらに夜襲を敢行して足がかりを作ることに成功。
もちろん元親も同行していましたが、彼が実戦に加わったのは後半、戸ノ本という場所での戦いでした。
数の上では本山軍が上回っていたので、ここでも当初長宗我部軍は苦戦します。
しかし粘りに粘り、何とか持ち直しました。
で、元親は何をやってたの?
というと、なんと直前に家臣から槍の使い方を教わっていたといわれています。
いくら何でもそりゃないだろとツッコミたくなってきます。
「嫡男に武器の使い方教えてなかったんかい!?」
教わっていたのに動揺して忘れたというなら、それは元親の過失ですが……。
戦の流れ、勢いを読み取る天才?
そんな感じで土壇場まで頼りなかった元親ですが、さすがに武家の子息。
いざ敵に直面すると、自ら五十人の騎兵を率いて突撃を決め、なんと隊は七十人以上の首を討ち取るという成果を挙げるのです。
普通こういうときは将が手を下すことはないのですが、元親自ら敵の騎兵を二人も討ったといわれています。
それだけではなく、彼は戦場の“勢い”に目をつけました。
言わずもがな、勝っている側は勢いがありますし、劣勢になっている方は押されれば押されるほど崩れていきますよね。
これを見た元親は、トーチャンの制止を振り切って、近くにあった潮江城という城に向かって再度突撃します。
周囲の様子からして、ここに兵はいないと踏んだのです。
元親の読み通り、潮江城はもぬけの殻になっており、戦うことなく奪い取ることができました。
周囲は「あの姫(笑)が!」とビックリ仰天。
以降、元親を「姫若子」と呼んで馬鹿にする者はいなくなり、代わりに「鬼若子」「土佐の出来人」という仰々しい呼び名がつきました。
ここから本格的に元親の大活躍が始まるのですが、それは以下の記事にお譲りしたいと思います。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
長浜の戦い/Wikipedia
長宗我部元親/Wikipedia