「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」
人の成長は、親や周囲が期待するほどには伸びず、凡人で終わることも多い――そんな意味ですが、中には年月を経て、全く逆に変わる人もいます。
永禄三年(1560年)5月26日に始まった【長浜の戦い】はそのキッカケとなりました。
初陣を果たした長宗我部元親が、この戦いを機に強烈な変化を遂げたのです。
いったい何が起きたのか?
元親の生涯そのものは、以下の記事に譲り、
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長宗我部元親の生涯|土佐の鬼若子は四国統一を成し遂げ 失意の中に死す
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今回は、長宗我部家の歴史ならびに長浜の戦いを見ていきましょう。

長宗我部元親/wikipediaより引用
生まれつき色白でおとなしく姫若子と呼ばれ
長宗我部家はもともと土佐の国人(地域の有力者)の家です。
しかし、元親から見て祖父にあたる兼序(かねつぐ)の時代、その地位が危うくなったことがありました。
そのため、当時、子供だった元親の父・長宗我部国親は、京から下ってきた公家・一条家に身を寄せています。
戦国時代とはいえ、一条家は朝廷から正式に土佐の一部(現・四万十市あたり)の領有を認められていたので、周囲の国人達もおいそれとは手を出せない。
大事な跡継ぎが安全なところに避難したところで、兼序は敵と和睦。
領地を取り戻した後、息子を引き取ります。
しかし、兼序も国親も生きているうちに土佐を統一することはできませんでした。
言ってみれば、長宗我部家にとって、土佐統一というのは親子三代の悲願だったわけです。まぁ、長宗我部家だけではないと思いますが。
※長宗我部の居城・岡豊城
このころ国親は自分の倅、つまり元親について頭を抱えていました。
生まれつき色白なのはいいとしても、性格がおとなしすぎたのです。
武家の長男だというのに「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれるほどでしたから、顔の作りもやや女性的だったのかもしれません。
父親としては「このか弱さで、この群雄割拠の時代に家を背負っていけるのだろうか……」と心配するのも無理はない話です。
有名な「一領具足」は父・国親が考案した
とはいえ、武家の男子として初陣を果たさないわけにはいきません。
国親はおそらく心配だったでしょうが、元親21歳のとき、とうとうその機会がやってきます。
それが【長浜の戦い】というわけです。
相手は、かつて兼序が一時本拠を追われる一因を作った本山家でした。長宗我部家にとっては仇敵ですね。
国親としては国力を培うため【一領具足】というシステムを考え出したり、他家と縁戚になったり、地盤を固めています。
さほどに念入りな準備が必要な強敵でした。
一領具足とは「平時は農民で、いつ戦が起きてもいいように武具を畑の隅に置いておき、いざ呼び出しがかかればその場で装備を固めて出陣する」というものです。
農民というといかにも社会的弱者のようなイメージがありますが、当時は鍬や鋤だけでなく刀も槍も握ります。
昔の農業は人の手による力作業ばかりですから、屈強な者もたくさんいる。

そこに目をつけて考え出された制度です。
国親が原型を作り、元親が発展させたので、親子二代にわたる努力の賜物というべきですかね。
常に臨戦状態にあるぞ――というメンタル的な作用もあったでしょう。
合戦直前に槍の使い方を家臣に教わった!?
しかし、よくこの状況で、散々「か弱い」と言われていた長男を大事な戦いに初陣させる気になったものです。
21歳というのは初陣としてかなり遅い。
永禄三年(1560年)5月26日、国親は長宗我部家から見て本山領との境界にある長浜城(現・高知県高知市)を攻め始めました。
ゆえに【長浜の戦い】と呼ばれるんですね。
戦いは決して簡単ではありませんでした。
城兵の士気が高く、長宗我部軍は一時苦戦します。
そこで国親は、城門を修繕するために呼ばれた職人をこっそり買収し、さらに夜襲を敢行して足がかりを作ることに成功。
もちろん元親も同行していましたが、彼が実戦に加わったのは後半、戸ノ本という場所での戦いでした。
数の上では本山軍が上回っていたので、ここでも当初長宗我部軍は苦戦します。
しかし粘りに粘り、何とか持ち直しました。
で、元親は何をやってたの?
というと、なんと直前に家臣から槍の使い方を教わっていたと言われています。
いくら何でもそりゃないだろとツッコミたくなってきます。
「嫡男に武器の使い方教えてなかったんかい!?」
教わっていたのに動揺して忘れたというなら、それは元親の過失ですが……。
戦の流れ、勢いを読み取る天才?
そんな感じで土壇場まで頼りなかった元親ですが、さすがに武家の子息。
いざ敵に直面すると、自ら五十人の騎兵を率いて突撃を決め、なんと元親隊は七十人以上の首を討ち取るという成果を挙げるのです。

普通こういうときは将が手を下すことはないのですが、元親自ら敵の騎兵を二人も討ったといわれています。
それだけではなく、彼は戦場の“勢い”に目をつけました。
言わずもがな、勝っている側は勢いがありますし、劣勢になっている方は押されれば押されるほど崩れていきますよね。
これを見た元親は、トーチャンの制止を振り切って、近くにあった潮江城という城に向かって再度突撃します。
周囲の様子からして、ここに兵はいないと踏んだのです。
元親の読み通り、潮江城はもぬけの殻になっており、戦うことなく奪い取ることができました。
周囲は「あの姫が!」とビックリ仰天。
以降、元親を「姫若子」と呼んで馬鹿にする者はいなくなり、代わりに「鬼若子」「土佐の出来人」という仰々しい呼び名がつきました。
ここから本格的に元親の大躍進が始まるのですが、それは以下の記事にお譲りしたいと思います。
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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
長浜の戦い/Wikipedia
長宗我部元親/Wikipedia





