細川忠興/wikipediaより引用

細川家

細川忠興(藤孝の長男)は文武両道のキテレツ武将!? 83年の生涯まとめ

大河ドラマ『麒麟がくる』でお茶の間に鮮烈なインパクトを与えた細川藤孝(キャスト:眞島秀和さん)。

明智光秀(長谷川博己さん)と対峙して、刀を構えたシーンは特に印象的でしたが、この藤孝、実は武道だけでなく、政治、外交、学問、芸術、和歌、料理と多方面で才能を発揮した方でも知られます。

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そんな藤孝のもとに生まれたのが、強烈キャラの長男・細川忠興(ただおき)です。

父に負けず劣らずの才に恵まれ、当代きっての文化人武将として信長・秀吉・家康らに重宝されながら、同時に忠興は、妻・ガラシャに対する「異常愛」でも戦国ファンには知られます。

異常愛とは何のことか?
いったい忠興はどんな武将だったのか?

藤孝の息子・細川忠興の生涯を振り返ってみましょう!

 

仲睦まじい両親のもとに生まれた細川忠興

永禄6年(1563年)11月13日、細川忠興が生まれました。

幼名は熊千代。

父は戦国屈指の文化人として知られる細川藤孝(細川幽斎)で、母は、津軽氏の軍師として活躍した伝説を持つ沼田光兼の娘でした。

両親は幼馴染の間柄で夫婦仲も良好だったと伝わり、藤孝には側室を娶った形跡がありません。

忠興出生時の藤孝は、割と平穏な時期を過ごしておりました。

この頃は織田信長と接近する前であり、形式上は足利将軍家の家臣です。

当時の将軍は第13代・足利義輝

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それまで没落一辺倒だった足利家に再興の兆しが見え始めていた頃です。苦労続きだった藤孝の生涯でも、かなりの充実期だったと言えましょう。

しかし……。

永禄8年(1565年)5月19日。
細川親子の運命を一変させる事件が突如勃発しました。

彼らが付き従い、足利家再興の旗印でもあった将軍義輝が暗殺されてしまったのです。

そう。永禄の変です。

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3歳だった忠興を置き去りにして父が都を出る

永禄の変とは、三好義継と松永久通(久秀の息子)らが中心となって起こした事件で、足利義輝が壮絶な死を遂げたことで知られます。

ずいぶんと暴力的だな……と思われるかもしれませんが、実際のところは「御所巻」と呼ばれる「デモ」のような行為が、昂じて殺害へと発展したという見方も。要は、暗殺ありきではなかった可能性も考えられる。

いずれにせよ将軍暗殺という事件は、細川家の生活を激変させました。

当時まだ3歳だった忠興を置き去りにして藤孝が都を飛び出していったのです。

大丈夫なのか……。
三好一族辺りに狙われたりはしないのか?

と、そんな心配もありますが、このとき忠興の乳母を務めていた人物が、非常に機転の利く女性だったようで、熊千代の名を宗八と改名した上で町屋に潜伏、忠興の安全を確保しました。

そして約3年後――。

藤孝が第15代将軍・足利義昭を擁立して京都に帰還する永禄11年(1568年)まで、潜伏生活は続きました。

息子のいる京都へ戻った藤孝は、その後、義昭の協力者として信長との関係を深めていきます。

ただし、その役割は決して容易ではありませんでした

主君義昭と信長は次第に対立を深めていき、藤孝も身の振り方に悩まされるようになるのです。

共に将軍と信長の間に入っていたとされる明智光秀とはこのころから親しく付き合うようになったとも目されています。

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両者の間で「義昭か、信長か」といった話もあったのではないでしょうか。

元亀4年(1573年)に藤孝は義昭からの離反を決意、信長家臣として織田家への従属を表明しました。

同時期に、光秀も仕官先を織田家一本に絞ったとされています。

 

父に従い信長の小姓として出世コースへ

藤孝の決断により、忠興を含む細川家全体が織田軍に組み込まれました。

これを機に彼らは細川から長岡へ姓を変更。

後に豊臣秀吉に仕えるまで長岡姓を名乗りますが、改姓後、忠興が初めて史料に登場するまでは若干の時間を要します。

それは天正4年(1576年)頃のことでした。

忠興は15歳になり初陣を経験すると、父に付き従う形で17歳までに実に17回もの戦闘を重ね、その全てに勝利したと本人が述懐しています。

この発言は誇張でもない事実でしょう。その証拠の一つに天正5年(1577年)の松永久秀攻めに関して【信長直筆の感状】も受け取っています。

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こうして早くから頭角を現しはじめた忠興は天正6年(1578年)、信長の小姓に取り立てられました。

いわば「出世コース」であり、例えば真田昌幸あたりも武田信玄の小姓に抜擢されたことで知られます。

忠興も早い時期から将来の成功が保証されていたといえるでしょう。史料に残されているわけではありませんが、新参者の藤孝にとって息子の活躍は御家を残す意味でも重要で、親としても喜ばしい流れだったはずです。

天正7年(1578年)には元服し、信長から偏(へんき)され、名を「忠興」と改めています。

また、同年に信長の命により明智光秀の娘である明智玉子細川ガラシャ)を正室として迎え、本人はこれ以上無い充実期に突入していました。

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この後も父に付き従う形で織田軍の主要な戦に参加し、信長からも変わらぬ評価を受け続けます。

文武両道、かつ芸術分野でも朝廷における立場も明るかった藤孝は織田家臣の中でも重臣とみなされるようになり、親子ともども順調に成長を遂げていくのでした。

 

生涯最大の危機は本能寺から

信長の厚遇を受け、織田家での立場を着々と固めていた細川親子。

しかし、彼らの危機は、思わぬところからやってきます。

天正10年(1582年)6月――忠興の義父にあたる明智光秀が突如として信長に反旗を翻し、【本能寺の変】が勃発したのです。

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光秀は信長を殺害すると畿内の掌握に取り掛かります。

が、思いもよらぬ展開が待ち受けてました。当時、中国地方で毛利家と対峙していた羽柴秀吉が【中国大返し】と呼ばれるスピード行軍で畿内へと大軍を移動させてきたのです。

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ここで極めて難しい判断を迫られたのが細川家でした。

彼らから見れば光秀はクーデターの首謀者であり、裏切り者にあたります。しかし、その一方で細川忠興の妻・細川ガラシャは明智光秀の娘であり、さらに光秀と藤孝は公私ともに親しくしている間柄です。

混乱極める状況にあって、細川家は明智の味方と思われても仕方のない場面でした。

しかし、本能寺での一件を知った細川家の行動は実に素早い行動に移ります。

まず、藤孝と忠興はともに髻(もとどり)を落とし、信長へ哀悼の意を表明。さらに、藤孝は幽斎玄旨という法号を名乗り隠居したのです。

この時点で忠興が細川家の家督継承者となりました。

細川親子の行動を聞きつけた光秀から、慌てて使者が送られ交渉をもちかけられましたが、彼らは光秀の懇願ともいえる救援要請を頑として受け入れません。

その徹底ぶりは、忠興の正室ガラシャをいったん離縁し、京都の味土野に幽閉していることからもわかります。

こうして大きな誤算が生じた光秀陣営は【山崎の戦い】で秀吉に敗れ、結果「三日天下」という不名誉な終焉を迎えるのでした。

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秀吉家臣として厚遇され各地を転戦

細川親子の行動は大正解でした。

すぐさま秀吉への恭順を表明したことが幸いし、家臣として厚遇されるようになったのです。

厚遇の理由は主に二点考えられます。

影響力の強い細川家という名門が真っ先に恭順を示したことによる政治的効果と、当代きっての文化人として知られていた親子の文化的効果です。

付け加えて言うなら、もう一つ厚遇の理由がありました。

信長の死によって忠興の領地である丹後国(現在の京都府)に不穏な動きが見られたのです。

明智との戦いに勝利した秀吉ですが織田家の内紛は始まったばかりであり、少しでも戦力を温存しておきたい――そんな状況で、室町幕府の名家・一色家が反乱を企てたのでした。

ここですかさず動いたのが忠興。

一色家の当主・一色義有を居城に招くと、宴会の隙に彼とその手の者を暗殺し、一色家を滅ぼすことに成功したのです。

忠興はこの暗殺劇を武勇伝としてしばしば語っていたようですが、義有の妻は忠興の妹であったため、戦後彼女と対面した際に脇差で顔を傷つけられたという伝説も残されています。

もっとも、忠興の性格を考えれば、その場で妹を切り捨てていても不思議ではないと思います。あくまで創作の一つではないでしょうか。

その後、忠興は天下を手中に収めんとする秀吉の家臣として、

で功を挙げていきます。

特に、徳川家康・織田信雄連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いにおいては、負け戦の局面でも無類の活躍を見せ、秀吉から「両度の功無比類」と絶賛されました。

こうして天下の雄として地位を確立した秀吉に従い、忠興も九州や関東の平定へ参戦。

豊臣政権の樹立に大きく貢献していくのです。

 

幽斎とともに文化人としても活躍

細川親子がドラマや漫画に登場するとき、必ず【文武両道】という面にスポットライトが当たります。

武とは政治・外交・合戦であり、文とは文化・芸術と考えてよいでしょう。

それにしても、なぜ彼らは「文」ジャンルでも注目されるのか?

伝統と家格を有する細川家――という一面も確かにあるでしょう。

しかし名前だけでなく、細川幽斎が、『勅撰和歌集』の秘伝を師より口頭で受け継ぐ【古今伝授】を授けられていたのが圧倒的だったからでしょう。

彼は現代でいうところの「人間国宝」に該当するような人物でした。

そして、偉大な父をもった忠興も文化人として大成することになります。

文化面を重視した秀吉の政策方針も相まって、彼の手で多数開催された大規模な茶会に数多く参加し、優れた力量を見せつけるのです。

 

茶の道は父をしのぐとも

例えば天正15年(1587年)に開催された北野大茶会

聚楽第の完成や天下統一の順調な経過を示す目的で開催され、その規模から現代まで語り草になっているイベントに参加しております。

この際、忠興は松向庵という茶室を設けて秀吉を歓待。この茶室を模したと思われる一室が大徳寺高桐院に現存しており、彼の「松向院殿」という戒名もこれに由来しています。

残念ながら北野大茶会はさほど盛り上がらずに終わってしまいましたが、忠興は茶の世界で際立った才能を発揮しました。

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こと茶の分野に限っていえば幽斎をもしのぐ能力の持ち主であったとも称されます。数々の茶会で優れた茶人たちと交流を重ね、あの千利休を師として仰ぐほどでした。

しかし、天正19年(1591年)頃になると、その利休と秀吉の関係に変化が生じるようになります。

秀吉の不興を買った利休はしだいに追い込まれていき、忠興は主君と師の仲介役として奔走することを余儀なくされるのです。忠興の働きは利休にとって好ましいものであったようで、かねてから所望していた茶器を与えられたりしています。

こうした忠興の働きにも関わらず、事態はいっそう悪くなるばかり。同年、利休は突然蟄居を命じられました。

これは彼の死が近いことを意味していました。

秀吉の目を考えれば、利休とは距離を置くことが最善の策でもあります。

しかし忠興は、それでも利休との関係性を大切にし、蟄居の際にも見送りに立ち会うほど。その後、決死の助命嘆願も叶わず、切腹を命じられた師の精神を受け継ぐ者として、忠興は利休七哲の一角として数えられることになりました。

 

妻ガラシャとの「刺激的」すぎる結婚生活

利休との関係においては非常に侠気を感じさせる忠興。

しかし、その妻ガラシャとの結婚生活となると、なかなかエキセントリックな話が伝えられています。

二人の関係は、我々が思う「夫を立てる妻」というような戦国時代の夫婦像とは大きく異なるものでした。

確かに二男四女をもうけるなど、戦国時代に最も重要視された子づくりという点では順調。

それでも夫婦仲が円満だったとは思えないのは、忠興とガラシャが超個性的な人物であり、その個性がぶつかり合ってしまったからではないでしょうか。

現代の我々からすると、にわかには信じがたい数々の奇想天外な逸話が残されています。

忠興は家臣から「天下で一番気が短い」と称されるほど短気な人物として知られており、下僕や奉公人をしばしば手打ちにするということがありました。

その際、あるときは血塗られた手をガラシャの小袖で拭き、またあるときは落とした首をガラシャに投げつけるという奇行に走ったと伝わっています。

この時点でも既に異常さが際立っているのですが、奇行に対するガラシャの行動もまた衝撃的なものでした。

ガラシャは小袖で血を拭われた際にはわざとその小袖を着続け、最終的に忠興が謝罪するまで小袖を脱がなかったとされます。さらに、首を投げつけられても平然として動じることがなかったとも伝わります。

このように個性がぶつかりあっていた細川夫婦ですが、忠興はガラシャのことを深く愛していたと考えられます。

実際、ガラシャを大坂に残して地方へと向かう際には「秀吉になびくなよ」という旨の書状を送っており、またガラシャが自害した際に彼女を見捨てた家臣に対しては怒り狂ったという逸話が残されているのです。

ところが、忠興の「偏愛」はガラシャに響いていなかったようで。

彼女はカトリックに帰依した後、何度も宣教師に離婚の相談をもちかけていたことがキリシタン文書から確認できます。

個人的には「意外と二人の相性は悪くないのかも……」と思わないでもないですが、当人たちの本音が聞けないのは残念です。

閑話休題。
話を秀吉の死後へと進めましょう。

 

関ヶ原も乗り切って家名を後世に残した

慶長8年(1598年)8月、天下人の豊臣秀吉が死去。

にわかに徳川家康と石田三成の権力争いが表面化していきます。

忠興は早くから家康支持を明確にしており、石田三成襲撃事件にも関与しました。当然ながら家康が大将を務める東軍として【関ヶ原の戦い】を迎えます。

しかし、戦そのものではなく戦に関連する諸騒動によって、忠興の妻や父に大きな危機が訪れました。

まず、妻のガラシャは西軍の実質大将である三成の差し金で奇襲に遭ってしまいます。三成は、大名の妻を人質として確保することで、西軍に与する武将を増やそうとしたのです。

そうした事態も想定してのことか。
忠興は事前に「人質になるくらいなら自害せよ」という命令をガラシャに対し伝えていました。

ガラシャはその言いつけを守り、三成方を相手にしばし抗戦すると、自害して果てるのです。これは忠興が短気で残虐だったことを裏付けるのではなく、戦国時代の慣例を重視した常識的な命令であったことを付記しておきます。

さらに、父の幽斎も隠居地の田辺城で西軍の襲撃に遭います。

圧倒的兵力差を前にしても、幽斎はあくまで徹底抗戦の構えを崩しませんでしたが、彼の文化的才覚を失うことを恐れた当時の後陽成天皇が勅命を出し、幽斎はやむなく開城しました。

このように関ヶ原に関連して家族に危機が訪れた忠興。

彼自身は本戦で大功を挙げ、戦後に豊前39万石もの恩賞を得ています。

この地への転封は名誉であると同時に抵抗もあったようで、息子の細川忠隆が「思いのほか遠国」という感想をこぼしています。

その後は豊前の整備に奔走し、小倉藩の政治体制を整えました。

忠興は元和6年(1620年)に家督を譲り隠居しますが、晩年になっても絶大な影響力を有していたようで、長男・忠隆を廃嫡にすると、次男ではなく三男の細川忠利に家督を継承。

ところが忠利との関係も良好とは言えず、家中でお家騒動が頻発するなど、晩年は穏やかではありませんでした。

隠居後の寛永9年(1632年)には忠利が肥後国へと加増転封されたことで、忠興も9万5千石もの隠居領を手にします。

三斎宗立をという名を名乗った忠興は隠居後も実権を握っていたとみられ、隠居領を立藩させる計画を練っていたとか。

かなりアクティブなご隠居様ですが、そんな忠興も老いには勝てず、正保2年(1645年)に生涯を終えるのでした。

享年83。

家名をきちんと残し、戦国大名としては立派な勝ち組と言えるでしょう。

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文:とーじん

【参考文献】
米原正義編『細川幽斎・忠興のすべて』(→amazon
春名徹『細川三代―幽斎・三斎・忠利』(→amazon
安延苑『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』(→amazon
田端泰子『細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ―』(→amazon

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