前田利家

前田利家/wikipediaより引用

前田家

前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

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信玄に続き謙信も亡くなる信長の強運

織田信長は実力も凄いが運もハンパねぇ。

それを思わされるのが武田信玄の死のタイミングであり、そしてそのライバル上杉謙信でありましょう。

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手取川の戦いでフルボッコにやられたその翌年の1578年、軍神と恐れられた謙信が突如亡くなるのです。

トイレで脳出血を起こしたと目され、跡継ぎも決めないままの死亡だったため上杉家では内紛が勃発し(御館の乱)、織田家にとっては最高の展開を迎えました。

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そうは言っても織田家も決して順風満帆ではありませんでした。

1578年、有岡城の荒木村重に突如裏切られ、前田利家も同城への攻撃参加を命ぜられたのです。

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前田利家は、いったん北陸を離れ、有岡城の包囲戦や三木城(播磨)の戦いに駆り出されます。

そして、その翌年に荒木村重が城を脱出し、有岡城の戦いが終わると、今度は柴田勝家と共に加賀平定に尽力し、無事にこれを平定します(1580年)。

合戦ばかりが続く織田家に、信長がご褒美のイベントを用意したのは、その翌年、天正九年(1581年)のことです。

織田家の各武将たちが着飾り、高価な名馬に乗って、京都の街をパレードする【京都御馬揃え】が開催されました。

前田利家は、これに越前衆の一人として参加。

名実ともに織田家の重臣として存在感を放ち、同年8月には、信長から能登一国を与えられて大名の仲間入りを果たしました。

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能登入りして七尾城を築城した後も、攻撃の手を緩めず、6月3日には柴田勝家や佐久間盛政らと共に魚津城を陥落(魚津城の戦い)。

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さらなる作戦を講じているところで、その一報は届けられました。

本能寺の変です。

 

本能寺直後は北陸で動けなかった

明智光秀が織田信長を討ったことで有名な本能寺の変。

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当然ながら、北陸方面の諸将にも迅速かつ的確な判断が迫られました。

元々、北陸方面に厚い体制が敷かれていたのは、越後の上杉家に備えるためです。

謙信はおらず、御館の乱で一度は分裂していた同家も、上杉景勝直江兼続のもと再び家中はまとっており、将兵の忠誠心は決して低くはありませんでした。

景勝も、自ら討ち死にする覚悟で織田家との対決に臨んでいました。

そんなに気合の入っていた上杉家の面々が、もし信長の急死を知ったとしたら……どうなるかは火を見るより明らかですよね。

攻守どころか形勢逆転さえ見えている状況の中、勝家の甥である柴田勝豊・佐々成政・佐久間盛政などが仲違いをしてしまったといわれています。

また、勝家と成政の間にも、剣呑な空気が流れていたようです。

その間に立って仲裁したのが、前田利家。

結局、利家は能登の一揆勢力や反織田家の諸衆の動きに囚われ、その場から動けずに、明智光秀は山崎の戦いで滅びるのでした。

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本能寺の変から11日後、6月13日のことです。

 

勝家と秀吉に挟まれて

前田利家は、たびたび他者の仲裁に動いたという記録が多々あります。

しかし、それだけに板挟みを味わったこともありました。

最大の問題は

◆自身が共に戦ってきた柴田勝家

◆利家の娘(豪姫)を養子入れさせるほど仲の良かった豊臣秀吉

という両者の争いに巻き込まれてしまったことでしょう。

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清須会議などを経て、利家にとっては旧友ともいえる間柄の秀吉と、上司的存在の勝家が対立し、ついに軍事衝突に至ると、苦しい立場に追い込まれてしまいます。

単純に「秀吉の調略によって、利家は早い段階で勝家を裏切るつもりになっていた」という見方もありますね。

かくして天正十一年(1583年)【賤ケ岳の戦い】が勃発すると、勝家は妻のお市と共に自害、当然ながら利家は生き残りました。

賤ヶ岳の戦いについては、秀吉が戦場から離れたのをキッカケに佐久間盛政が中川清秀の陣へ突撃し、その後、柴田軍に属していた利家が実質秀吉に味方をするようなカタチで戦線から離脱したことで、柴田軍が敗北しております。

詳細は、佐久間盛政の記事でご確認いただけると幸いです。

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最大のピンチ!末森城の戦い

1584年、豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが勃発。

前田利家は、佐々成政と北陸方面にとどまっておりました。

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しかし、ここで前田家最大のピンチが訪れます。

秀吉と袂を分かった佐々成政が、突如、前田利家の末森城に襲いかかったのです。

同城は、規模はさほど大きくないながら、能登半島の付け根の部分という要衝に位置する重要な城でした。

※黄色い城が末森城の位置

地図をご覧のとおり、南(加賀)・北(能登)・東(越中)という三カ国への侵攻が可能。

利家にとっては金沢へ攻め込まれる危険性があり、佐々成政にとっては自領を防衛するための最前線基地になり得たのです。

そこで利家は、連絡が届くやいなや兵わずか2,500で救援に向かい、同城の防衛には成功します。

が、佐々成政との戦いは始まったばかりで、そのまま北陸で小競り合いを続けることとなりました。

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しかし小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が手打ちになり、豊臣秀長豊臣秀次の援軍が利家のもとにやってくると、後ろ盾を失った佐々成政は敗北を覚悟。

ほどなくして秀吉傘下に降伏することとなるのでした。そして……。

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