金森長近/wikipediaより引用

織田家

金森長近の生涯|信長親衛隊“赤母衣衆”から大名へ 波乱万丈の85年を駆け抜け

2025/08/11

織田信長の家臣には、当然のことながら様々なタイプがおりました。

柴田勝家や羽柴秀吉のように、一地方の攻略を任された者。

滝川一益や前田利家のように、織田家親族や最高責任者の与力・目付のような立ち位置で、各方面の攻略に力を発揮した者。

そして、彼らほどの責務ではなくとも、信長の信頼厚く、要所要所で登場する者です。

慶長13年(1608年)8月12日が命日の金森長近はこのタイプ。

金森長近/wikipediaより引用

現代における知名度は決して高くありませんが、ところどころでキラリと光る武将です。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

金森長近は美濃源氏土岐氏の出自

金森長近は、大永四年(1524年)に現在の岐阜県多治見市で生まれました。

年齢は信長よりもちょうど10歳上。

滝川一益とほぼ同年齢という年代です。

滝川一益/wikipediaより引用

金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流にあたる家柄でした。

長近の先祖は、応仁の乱で西軍方についていた土岐氏の一人・大畑定近。

彼が一族揃って美濃を離れ、現在の滋賀県守山市金森町に移り、「金森采女」と名乗り始めたとされます。

ご存知の通り、武家が土着先の土地名を名字にすることは多々あり、以下のように例を挙げるとキリがないほどです。

・武田信玄の武田氏(常陸国武田郷)

・新田義貞の新田氏(上野国新田荘)

・足利尊氏の足利氏(下野国足利荘)

上記の例は東国の源氏ばかりになってしまいましたが、ともかく金森長近は、出自の曖昧な有力家臣が多い織田家にあって、割と由緒正しい家の人なんですね。

蛇足ながら、長近の兄弟には「落語の祖」とされる安楽庵策伝もいます。

本職は僧侶で、説教に笑い話を取り入れ、身分の上下問わず付き合い、顔の広い人物だったとか。

長近も後年、茶の道などに通じるようになるので、文化的なものが好きな血筋だったのかもしれませんね。

 


うつけ者と呼ばれていた信長に躊躇なく仕えて

金森長近の父・定近は土岐氏に仕え、後継者争いの余波で美濃から近江に移りました。

長近も、天文十年(1541年)までは近江にいたようです。

18歳のとき、長近は近江を離れ、信長の父・織田信秀に仕え始めたといわれています。

織田信秀/wikipediaより引用

残念ながら、キッカケになるような出来事は伝わっておりません。当時の価値観では立派な大人ですし、独り立ちしたということでしょうか。

信秀が亡くなった後、長近はすぐ信長に仕えており、これが中々の英断でした。

”当時の”信長といえば、尾張国内どころか周辺地域の上から下まで「うつけ者」と呼んでいた人物です。

若き日の織田信長イメージ/絵・富永商太

特にこの間の逸話もないので、長近はトラブルや逡巡もなく、信長に仕えたのでしょうね。

信長からも信用を得ていたようで、永禄二年(1559年)に信長が初めて上洛したとき、金森長近も同行者の一人に選ばれています。

当時の上洛はいわゆる「お忍び」で、兵を率いるような大々的なものではなく、お供はたった80人。当然、信長からの信頼が厚かった者ばかりでしょう。

それを示すポイントがもう一つあります。

このとき、美濃の斎藤義龍が、信長を暗殺するための刺客を放っていました。

斎藤義龍/wikipediaより引用

幸い、信長一行の後を追いかけてきていた尾張からの使者・丹羽兵蔵が、このことに気付いて機転を利かせ、信長に知らせることで難を逃れているのですが。

信長は、金森長近と丹羽兵蔵に、刺客のもとへ出向かせ

「なんか用事か? だったら信長様に会って挨拶をしてこい」

と、伝えさせ、結果、戦わずして事を収めてしまうのです。

以下の信長公記記事に詳細がありますが、

京都上洛の信長に向け義龍が放った刺客|信長公記31話

続きを見る

美濃からの刺客を、美濃の事情に詳しい者に任せる――というのは、ある意味、博打でもあります。

もしも刺客を呼び込んだのが当の長近だったら、命が危ない場面でしょう。

信長が、そういった懸念を抱いていないあたり、日頃から信頼があったことを窺わせます。

 

別働隊を率いて武田軍の背後を衝け!

金森長近は、美濃攻略でも功績を挙げ、赤母衣衆の一員に選ばれています。

前田利家が率いていた馬廻衆(側近部隊)ですね。

前田利家/wikipediaより引用

なお、黒母衣衆の代表武将が佐々成政で、いずれも織田家臣では中心の武将たちでした。

そんな中で金森長近は、大きな作戦をまるごと任されるということはありませんでしたが、要所要所で功績を挙げていきます。

例えば、天正三年(1575年)5月【長篠の戦い】では5,000騎を率いて、3,000騎を従えた酒井忠次と共に、鳶巣山砦を落としています。

ここは武田方の総大将・武田勝頼の背後でもあり、メインの戦場となった設楽原へ追い出す役目となったのでは?という非常に重要な役割ですね。

この戦功で信長から「長」の字を賜り「長近」と名を改めています。

実はここまでは「可近(ありちか)」と名乗っていました。

それから数カ月後。

同年8月には信長が主導した【越前一向一揆】攻略のため、温見峠越えをして越前大野へ。ここから数ヶ月で平定に成功しています。

信長ももちろん高く評価し、長近に越前国大野郡の2/3を与えました。

その後は柴田勝家が最高責任者を務める、北陸方面軍の一員として動きます。

柴田勝家/wikipediaより引用

この北陸方面軍は、先の前田利家や佐々成政、佐久間盛政なども所属しているバリバリの武闘派集団です。

あまり【武】のイメージのない金近ですが、この集団でやっていけるということは、相応の腕前・胆力だったのでしょう。

 

甲州征伐

武田氏の本拠を攻めた天正十年(1582年)の甲州征伐においては、飛騨口の大将を務めました。

一度所属を決めたからってそれをガチガチには固めず、必要に応じて編成を変えていく柔軟性も、信長の大きな特徴ですね。

一方で、宥和的な方針を用いたこともありました。

この頃、土岐氏の重臣だった長屋氏から養子をとって金森可重(ありしげ/よししげ)と名乗らせ、彼の正室として遠藤慶隆(よしたか)の娘・室町殿を迎えています。

可重の父・景重は板取田口城。

室町殿の父・遠藤慶隆は郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう・岐阜県郡上市)の主でした。

美しき郡上八幡城の遠景

この縁組は、軍事的なメリットもさることながら、長近からすると美濃・尾張と行き来するルートをもうひとつ確保することにもなりました。

硬軟さまざまな策を使い分ける、優秀な武将といえるでしょう。

 


運命が劇的に変わった1582年6月2日

天正十年(1582年)2月には従四位下・兵部大輔に任じられ、さらにその後、正四位下・兵部卿に昇格。

いずれも朝廷のお役所(八省)の中で軍事関連を受け持つ「兵部省」の役職で、兵部卿が長官、兵部大夫がその次に高いポジションです。

兵部卿は皇族が就くケースも多く、源氏物語でもたびたび「兵部卿宮」と呼ばれる人物が登場しますね。

※ヒロイン紫の上の父=兵部卿宮、光源氏の弟=蛍兵部卿宮など

鎌倉幕府成立以降、兵部省の仕事は代々の幕府や将軍・武家に取って代わられていましたが、本来は衛士(諸国から上洛し、宮中警護を行う者)の管理などもしていた役所です。

長近の人物をうかがわせるエピソードがあまり伝わっていないので、これはあくまで推測ですが……。

おそらく信長は

「もしこの先、兵部省の仕事をやることになったとしても、長近なら皇族・公家から下々の者まで、誰とでもうまくやっていけるだろう」

と思っていたのではないでしょうか。

有能な司令官ならば他にもたくさんいました。官職も同様です。

その中であえて兵部省に関するものを選んでいるあたりに、信長からの長近に対する評価がうかがえるかと。

しかし、そんな彼の順調な武将生活も突如激変します。

1582年――本能寺の変です。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用

 

嫡男は二条御所で信忠と共に……

他の家臣たち同様、本能寺の変で織田信長が斃れると、金森長近の運命も激変しました。

実はこのとき、長男の金森長則が織田信忠と共に討死しています。

織田信忠/wikipediaより引用

場所は二条御所。

攻め込んだ明智軍は斎藤利三で、他にもここで村井貞勝・貞成親子や斎藤利治なども戦死しております。

長近は主君父子と息子を弔うため、剃髪して「兵部卿法印素玄」と号し、臨済宗大徳寺に金龍院という塔頭を建ててもいました。権力争いの当事者になるつもりはなかったのでしょう。

しかし、即座に武力を捨てたとしても、潔すぎて怪しまれるというもの。

柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、長近は当初、勝家方につきました。

勝家とは北陸での付き合いもありましたし、土岐氏の血を引く長近からすれば、秀吉は成り上がり者ですから、すぐに従う気にはならなかったでしょう。

ですが長近は、矜持で身動きが取れなくなるようなことはしません。

天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】でも勝家方にいたものの、前田利家と行動を共にし、ここから秀吉につくようになります。

絵・富永商太

 


飛騨一国の大名に!

豊臣秀吉に臣従してからの金森長近も、堅調な働きっぷりは変わらずです。

その後は

◆小牧・長久手の戦い

◆富山の役

◆飛騨・姉小路頼綱討伐

などで功績を挙げ、飛騨一国を与えられました。

天正地震のため一晩で山中に埋もれたとされる飛騨国・帰雲城(かえりぐもじょう・埋蔵金伝説も存在)と内ヶ島氏にも、長近が少しだけ関係しておりますので確認してみますと……。

佐々成政が秀吉に敵対していた頃、内ヶ島氏は成政方についていました。

佐々成政/wikipediaより引用

しかし、本拠・富山城へ攻め込まれた成政は、10日ほどで剃髪・降参。

内ヶ島氏は元々飛騨の峻険な地域を領していたこともあり、外征経験が少ないため、これ以上の抗戦は不可能と判断します。

損耗を避けるため、当主の内ヶ島氏理(うちがしま うじまさ)は、長近を通じて秀吉と和睦したい旨を伝えました。

この和睦はスムーズに成立し、帰雲城ではそれを祝って氏理以下、一族・重臣が勢揃いする大祝宴が行われることになります。

よりにもよってその宴の夜に天正地震が発生。

城ごと全員土砂に埋まってしまった――というものです。

帰雲城
一晩で土中に消えた帰雲城と戦国大名・内ヶ島氏理~当時最大クラス天正地震の恐怖

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内ヶ島氏の領内に2~3ヶ所の金山があったとされ、埋蔵金伝説も生まれたのです。

言わずもがな、地震は自然現象なので長近に責任はないものの、この知らせを聞いて複雑な気持ちになったでしょうね。

金森長近がどのタイミングでこの件を知ったかはわかりません。

が、飛騨一国を預かる立場になったからには、内ヶ島氏に連絡を取ろうとしたはずです。

内ヶ島氏の中で、たまたま外出していた人や、氏理の親族のうち、仏門に入っていた弟二人は助かったといわれていますので、その中の誰かから聞くか、誰かに調べさせるかくらいはしたでしょう。

話を長近に戻しましょう。

 

観光地・飛騨高山は長近が作った!?

飛騨を任された金森長近は、当初、鍋山城(高山市)に腰を落ち着けました。

その後、天正十八年(1590年)から、天神山に高山城の造営を開始。完成したのは、この後しばらく経った慶長十年(1605年)頃のことです。

これが今日でも観光地として名高い、飛騨高山であります。

文禄三年(1594年)頃には、秀吉・御伽衆の一人になっていたようです。

金森長近は、禅宗と茶道に造詣が深いだけでなく、織田軍創世記からの生き残りのため、格好の話し相手となったのでしょう。

実際、秀吉と親しくしていたらしき話も伝わっています。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

晩年の秀吉が、有馬温泉に行ったとき、長近が秀吉を背負って湯につかった……というのです。

あまり語られることのない話ですが、秀吉の晩年というと、おそらく1590年代。

長近は1524年生まれですから、少なくとも60代後半になっていたはず。

秀吉が小柄だったことを差し引いたとしても、長近が頑健な肉体を持っていたであろうことがうかがえます。

身長が高ければ、前田利家のように特記されていたでしょうから、特別大柄というわけではなかったのでしょうね。

 


関ヶ原では親子で東軍につく

秀吉の死後、【関ヶ原の戦い】では養子の金森可重(よししげ or ありしげ)と共に東軍につきました。

義父子で敵味方に分かれることを選んでいないあたり、徳川家康が勝つと確信していたのでしょうか。

この辺、戦国時代を生き抜いてきたしたたかな勘が働いていそうです。

ただ、大きな野心まではなかったようで、戦後家康が領地を与えようとしたとき、一度断っております。

徳川家康のゴリ押しで、結局は美濃・上有知1万8000石、河内・金田3000石を受け取ることになるのですが。

慶長十年(1605年)には高山城を可重に譲り、自身は小倉山城(岐阜県美濃市)を築いて隠居生活を始めました。

そしてその三年後、慶長十三年(1608年)に京都で亡くなっております。

享年85。かなりの長寿ですね。

高山城と小倉山城は、その後全く違う経緯をたどりました。

まず高山城と高山藩は、養子・可重とその子孫たちが受け継いでおります。

しかし、元禄五年(1692年)に突如、六代藩主・金森頼時が出羽国上山藩への移封を命じられ、やむなく引っ越し。

その後、この地は天領として幕府に接収され、そのまま幕末を迎えるため、この地の金銀山や木材などが目をつけられたのでは……とも推測されます。

出羽へ移った金森頼時は、その後、さらに美濃郡上藩に移され、跡を継いだ頼時の孫・金森頼錦(よりかね)の代に増税政策の失敗で百姓一揆が勃発。

重ねて、領内の聖職者たちの利権が絡んだ石徹白騒動(いとしろそうどう)が起き、関係者の厳寒地への追放、それに続く餓死者の続出という大惨事になりました。

生き残った人々が江戸へ決死の訴えを何度も行った結果、やっと幕府の裁きが入り、頼錦は責任を問われて改易となります。

 

「うだつの上がる町並み」

小倉山城のほうは、長近の晩年に生まれた実子の金森長光に美濃・上有知と河内・金田(関ヶ原の褒美として与えられていた領地)と共に相続されました。

しかし、長光が慶長十六年(1611年)に幼くして亡くなったため、上有知は没収。

金田だけは存命中だった長近の妻・久昌院の知行として残されました。

いわば化粧料(一定以上の地位を持つ女性の生活費としてあてがわれる権利や領地)ですが、これは久昌院が家康の叔母だったからだとされています。

小倉山城は廃城となり、その後の上有知は尾張藩の一部として管理され、城下町は残りました。

現代では「うだつの上がる町並み」として、重要伝統的建造物群保存地区になっています。

この「うだつ」は、慣用句の「うだつが上がらない」(見栄えがしない)の「うだつ」です。

うだつとは、火災が起きたときに延焼を防ぐため、隣家との間に設ける防火壁のこと。時代が下るに従って、装飾的な意味合いが強まっていきました。

家を飾るにはそれなりの財力が必要ですから、「うだつが上がらない」=「見栄えがしない」という意味になったんですね。

長近の血筋は歴史には残らなかったものの、彼が造った町は残ったのですから、誇らしいことでしょう。

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【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
国史大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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