「延暦寺で女子供も殺しまくった」とか。
「長島一向一揆で信徒2万人を焼き殺した」とか。
インパクト大なエピソードばかりが広がりがちな織田信長。
家督を継いだ当初は尾張一国どころか織田家すら掌握できず四苦八苦していたのは、大河ドラマ『麒麟がくる』でご存知の方も多いでしょう。
父の織田信秀が42才で亡くなると、跡を継いだ19才の信長は「うつけ」とされ、親類衆からも「アホに従ってたら滅ぼされるわ」と次々に裏切られていくのです。
その期間、実に1552年から1565年まで。
永禄8年(1565年)7月15日あたりに犬山城の織田信清が落ちたことで信長の尾張統一が成されたと見られています。
一体なぜそれほどの期間が必要となったのか?
ある意味、その後の天下統一事業よりも苦心させられた14年にも及ぶ戦いを、本記事では六段階に整理してみましたので、よろしければご覧ください。
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尾張国内に群雄割拠の親類たち
まずは始まりと終わりの確認から。
天文21年(1552年)3月に父の織田信秀が死亡。
そして信長が家督を継いでから13年後の永禄8年(1565年)、織田信清の犬山城を制して完全な尾張統一を成し遂げます。
実は1559年に尾張の主要エリアを治めていたのですが、ここでは1565年の完全統一を基準としたいと思います。
ともかく、なぜ、織田家はこれほどまでにバラバラだったのか?
答えは単純で、そもそも尾張の中で織田家はいくつも枝分かれしていたんですね。
信秀死亡時の勢力図を見てみると、こんな感じです。
【尾張の勢力】
◆上四郡(葉栗・庭・中島・春日井)は守護代の織田信安が優勢
◆下四郡(愛知・海東・海西・知多)は守護代の織田彦五郎が優勢
◆犬山エリアは織田信清
※それぞれの家でも家臣の台頭や親子の争いがあったりしてバラバラ
信長が生まれた血筋は、本来、織田家の中では傍流であり、本家から見ればオマケ程度でした。
【守護】斯波氏
↓
【守護代】織田氏
↓
【清洲三奉行の一つ】信長の家
それがどうして勢いを持ったのか?
と言いますと、信長の祖父や父の織田信秀が津島衆を押さえて商業を盛んにしたり、室町幕府や朝廷との関係を構築したり、さらには今川や斎藤との合戦で頑張ったりして、尾張国内の親類勢から抜きん出たのでした。
※以下は織田信秀の関連記事となります
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯
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戦国時代は、勝手に官位を名乗る大名が多かった中、外交力もある信秀は正式に朝廷から任官されるほど。
尾張統一まで目前でしたが、42才のとき、志半ばで亡くなってしまいます。
尾張統一までの6ステップを確認
勇将・信秀が死に、跡を継いだ信長。ブッ飛んだ人ですから、尾張は大変なことになります。
いわゆる「うつけ」と呼ばれていて、評判が最悪だったのはよく知られているところですね。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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信長は、その実力を周囲に理解してもらう前に、あれよあれよと戦いの日々へ引きずり込まれます。
特に1552年から1565年までは身内を相手にエブリデイ戦闘状態でした(桶狭間は1560年)。
まずは年表でざっと見ておきましょう。
【信長苦心の尾張統一】
◆第一段階
1552年 父・織田信秀が没する
1552年 赤塚の戦い……山口親子の裏切り
→若い信長は家臣たちにナメられ、父の死と同時にさっそく裏切られています
◆第三段階
1553年 守護・斯波義統が殺害され、信長が息子の斯波義銀を引き受ける
1554年 清州城乗っ取り……坂井大膳は逃亡
→清州城を取り仕切っていた坂井大膳を城から追い出し、尾張の中心・清州城を手中におさめます
◆第五段階
1556年 稲生の戦い……弟・織田信勝と対立し、林秀貞や柴田勝家らと戦う
1558年 浮野の戦い……織田信賢との合戦
1559年 岩倉城の戦い……信賢を討って、尾張の大部分を掌握
→しかし依然として以下のエリアは勢力外
【尾張北部は織田信清】
【尾張東部は今川】
※この時期から隣国・美濃攻略もボチボチ始まります
◆第六段階
1562年 於久地城の戦い……織田信清勢との戦い
1563年 小牧山城へ移転
1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放してついに尾張を完全統一
→尾張北部の犬山城と同時に美濃攻めも始め、1567年稲葉山城の戦いで美濃を制します
いかがでしょう?
息が詰まりそうなほど親類・家臣との戦いに忙殺されているのがわかりますよね。
19歳で家督を継いでから14年間戦い続け、ようやく一国の支配がかないました。信長は32歳になっていました。
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