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【宇都宮成綱】
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家臣の芳賀景高だけは抑えきれず謀殺を企てるも……
芳賀氏の当主・芳賀景高(かげたか)は、成綱の幼少期からの重臣で、それだけに成綱も抑えきることができませんでした。
景高が亡くなった後も、景高の息子・高勝が大きな影響力を持ち続けており、似たような状況が続きます。
そして、足利家の内紛に際し、成綱と高勝の意見が割れたことで、宇都宮氏自体が真っ二つに割れかねない事態になりました。
成綱はこれを、高勝の謀殺という荒すぎる手段で解決しようとします。
しかし芳賀氏サイドから見れば
「俺達は今までお家のために尽くしてきたのに、なぜ高勝様を殺されなければならないんだ!」
となるのも当然のこと。
むしろ、なぜ成綱がそこに気づかなかったのかがワケワカメ。
こうして芳賀氏が反乱を起こしたところに、足利家の内紛と絡んで見事に話と戦がこんがらがります。
しかも成綱はこの頃、息子・宇都宮忠綱に家督を譲っていました。
戦国時代で存命中に家督を譲る理由は色々ありますが、成綱が亡くなる四年前のことですから、健康上の不安も大きな割合を占めていたことでしょう。
成綱は元気な間、忠綱の後見として、いろいろやっていますし。
当時、息子の忠綱は15歳。
当主としてはまだまだ若いものの、元服=成人しているという意味では心配ありません。成綱自身が家督を継いだときと比べればなおさらです。
最終的に成綱たち主家のほうが勝ちました。
何とも後味が悪い話ですが。
豊臣家の確執に巻き込まれて御家断絶とはこれいかに
成綱は、芳賀氏の名前だけを残すことにしました。
芳賀氏の年長者を宇都宮城に捕らえ、自分の息子の中で最年少の興綱に家名を継がせたのです。
ついでに成綱の弟をつけて、芳賀氏が二度と逆らうことのないように計らいました。しかし……。
成綱がこの始末をつけて永正十三年(1516年)に亡くなると、またしても芳賀氏は反乱を起こします。
もう、いっそのこと一族丸ごと別の大名に仕えて、内部の情報を提供する代わりに宇都宮をもらう……とかのほうが手っ取り早い気がしてきますが、手段が目的になってたんですかね。
こうして、成綱が作り上げた地盤は崩れ、宇都宮氏自体も歴史の大舞台からは一歩引くことになりました。
一応、豊臣秀吉の時代まで家は続いておりますが、秀吉の晩年にいきなり改易されるという悲惨な目に遭っています。
どうやら豊臣家内の確執に巻き込まれたようです。
可哀想すぎるやろ(´;ω;`)ブワッ
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
宇都宮成綱/wikipedia
下野宇都宮氏/wikipedia