里見義堯

戦国諸家

安房の戦国大名・里見義堯の生涯~後北条氏を相手に引かず 混乱の関東を生き残る

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乱の後始末、そして北条氏と決裂

里見義豊と武田恕鑑の動きを察知した里見義尭は、再び後北条氏へ援軍を依頼。

掛古戦場跡(南房総市)付近で義豊軍と激突すると、見事勝利を収め、義豊の首を挙げました。

その後、義尭は義豊の首を北条氏綱に送ったそうで。

今後も良い関係を続けたいという意向もあったことでしょう。

ちなみにこのことは後北条氏の領内で割とすぐに広まったらしく、鶴岡八幡宮の供僧・快元が

「これは大永六年(1526年)に里見義豊が鎌倉に侵攻して鶴岡八幡を焼いたことに対する天罰だ!」

と書き残しています。

武神のお宮を焼いて武運に恵まれるわけありませんね。

鶴岡八幡宮

ともかく、里見義尭はアラサーにして庶家の一員から本家の当主の座を手に入れると、早速、自分に味方してくれた者たちへの論功行賞を始めます。

おそらく義豊が最も欠落していた部分であり、その失敗を見ているだけに丁寧に行われたことでしょう。

義堯は、これによりさらなる信頼を得て、次に荒れ果てた領内の復興に取り掛かります。

寺社の修繕に注力して庶民の雇用を生み出し、父を始めとした乱の戦没者の慰霊も行うなど、実利と心情に寄り添った政策を進めるのです。

義尭は領内視察にも積極的だったようです。

となれば世情の声もよく聞いたはずですが、細かい記録に乏しいのが残念なところ。

また、このころ親しくなった妙本寺の僧侶・日我とは生涯にわたって親交を保ちました。

そんな感じで内政については上手くいっていた里見氏なのですが、外交についてはきな臭さが漂ってきます。

後北条氏と決別しなければならなくなったのです。

天文四年(1535年)の時点での里見氏は、後北条方として河越などに出兵していました。

『江戸図屏風』にある川越城(河越城)/wikipediaより引用

しかし天文六年(1537年)、小弓公方・足利義明の圧迫を受けて臣従せざるを得なくなり、後北条氏と対立することになってしまいます。

小弓公方というのは、室町幕府が鎌倉に置いていた”鎌倉公方”の後身の一つ。

せっかくですので小弓公方が生まれた経緯をチャートで確認しておきましょう。

①享徳の乱で鎌倉公方・足利成氏が失脚

②成氏が古河(茨城県古河市)に逃れたため"古河公方"と呼ばれるようになる

③成氏の死後、成氏の子・政氏と政氏の子・高基が内紛を起こす

④古河公方家の混乱に乗じ、上総の真里谷信清(恕鑑)が高基の弟・義明を担ぎ上げる

⑤義明が小弓城(千葉市中央区)に入って"小弓公方"と呼ばれるようになる

⑥義明が房総半島を南下して里見氏を圧迫し始める

とまぁ、こんな感じです。

享徳の乱については以下の記事でご確認していただき、

享徳の乱
なぜ享徳の乱は28年間もドンパチが続いたのか 足利vs上杉で関東は戦国時代へ

続きを見る

本記事では、この経緯により勃発した関東の大戦【第一次国府台合戦】を見て参りましょう。

後北条氏を相手に大戦となったこの戦い、里見氏は小弓公方側で参戦することになったのです。

 


第一次国府台合戦

天文七年(1538年)に起きた第一次国府台合戦の構図をまとめると以下の通り。

古河公方・足利晴氏(甥)

後北条氏

vs

小弓公方・足利義明(叔父)

里見氏

晴氏は義明の兄・高基の息子です。

後北条氏が古河公方側についたのは、晴氏と北条氏綱の娘が結婚したことによります。

もう少し前までは小弓公方側に扇谷上杉家(室町幕府内での関東部署ナンバー2・関東管領になれる家のひとつ)もいました。

しかし扇谷上杉家の本拠・河越城の争奪戦で後北条氏にたびたび敗れたため、国府台合戦に手や口を出せなかったという経緯があります。

こうして現在の千葉県松戸市南部~市川市北部あたりの国府台で、古河公方側と小弓公方側がぶつかり合うことになりました。

結果は?

義明とその息子の義純、そして義明の弟・基頼が揃って討死という、小弓公方側の大惨敗。

敗北側に立った里見義堯も不利な立場になるところですが、彼は里見軍にあまり被害が出ないうちに撤退を決めていました。

まあ、義尭からすると

「いきなり頭を押さえつけて来た、いけすかないヤツとその親族が討死してラッキー! 今のうちに帰って立て直しだ!」

と思うのも当然ですよね。

この流れだと後北条氏が房総半島にも食指を伸ばしてくるのも見えていますし、長居する理由はどこにもありませんでした。

 


後北条氏との睨み合い

予想通り、後北条氏は徐々に房総半島への侵攻を強め、海を挟んですぐ近所の里見領への攻撃も連続するようになりました。

かつてはすぐ援軍に来てもらえる距離だったのですから、なんとも因果なものです。

里見義堯にとって幸いだったのは、東=背後が太平洋であり、そちらからの攻撃を気にしなくてよかったことです。

後北条氏ほどの大勢力を相手にしつつ、後背も脅かされていたとしたら、里見氏は戦国時代を生き抜けなかったかもしれません。

そこで義尭は

・本拠を房総半島の南部中央に久留里城(千葉県久留里市)に移転

・真里谷武田氏がお家騒動をやっているのに乗じて佐貫城(富津市)や久留里城(君津市)を強奪

・後北条領の三浦半島を睨める位置の佐貫城に息子の里見義弘

というように、自領の防備を固めていきます。

その間、後北条氏は上総=房総半島の北側で国人や土豪たちを組み入れ、着々と南下の準備を進めていました。

嵐の前の静けさ、といった感がありますね。

しかし天文20年代になると、形勢は、徐々に後北条氏有利に傾いていきました。

例えば、弘治元年(1555年)には金谷城(富津市)や佐貫城が後北条氏に奪われてしまっています。

佐貫城から義尭の本拠・久留里城までは、現代の道路で30kmほどしかない。

久留里城周辺は一応山間部であるとはいえ、地理的には「山脈」ではなく「丘陵」であり、険しい山に守られているとはいえません。

もしも後北条氏に本気で攻め込まれれば、長くは保たないようなシチュエーションです。

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