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【里見義堯】
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息子へ家督を譲る
家中の統一や士気向上を狙ってか。
里見義堯は永禄年間の初期(1558~9年頃?)に息子の里見義弘へ家督を譲り、隠居として携わるようになっていきます。
子供に当主を任せ、親と2頭体制で政治を進めることは、戦国時代、珍しいことではありません。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
信長にしても割と早い段階で信忠に家督を譲り、以前と変わりなく全国支配作業を進めていました。
「もしも自分が討死するようなことがあっても、あらかじめ家督を譲っておけば、家中の混乱を防げる」
強大な後北条氏と対峙するからには、そんな考えもあったかもしれませんね。
余談ですが、義弘は当初「義舜」と名乗っており、義弘と名を改めたのは家督継承の頃だとされています。
義尭の”尭(ぎょう)”と義舜の”舜(しゅん)”はいずれも中国の伝説上の皇帝で、どちらも聖人といわれた人です。(※聖人じゃない説もあります)
このタイミングで義弘と名乗り始めたのは「聖帝を目指していてはこの苦難を乗り切れない」と思ってのことでしょうか……。
戦国時代で「義弘」といえば島津義弘が想起されますが、里見義弘のほうが年上なので「武勇にあやかった」わけではありませんね。
”弘”は人名にはよく使われる字ですので、ただの偶然でしょう。
まさか!謙信を動かした
こうして心機一転、新しい体制で臨む里見氏でしたが、後北条氏の攻勢は変わりませんでした。
永禄三年(1560年)5月には、いよいよ本拠・久留里城が包囲。
義尭は焦らず、しかし急いで山内上杉氏(関東管領に就ける家柄のひとつ・扇谷上杉氏とは遠い親戚だが政敵)の上杉憲政に連絡を取り、大博打に出ます!
”長尾景虎”とは後の上杉謙信のことです。

『芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎』(月岡芳年作)/wikipediaより引用
房総半島の南部でこれほどの情報を入手していて、なおかつアテにしようと考えた義尭の柔軟性がスゴいですね。
籠城戦となれば「援軍が来るまで粘れるかどうか」がカギになります。
景虎=謙信としても関東には進出したいと思っていたものの、大義名分がないと動きにくかったので、里見氏のお願いごとは渡りに船でした。
こうして永禄3年8月、謙信は大軍を率いて関東へ向かってきたのです。
謙信は、道中、各地の国衆たちを自身の兵に取り込み、どんどん大所帯になってゆきます。
こうなると後北条軍も里見氏に構っている場合ではなくなり、久留里城の攻略前に引き上げ、小田原へ急ぎました。
義尭も援軍を頼むだけでは終わらせず、上総方面に向かって一気に進撃。
国人たちを再び取り込んで勢力を強めます。
そして古河公方の座を失った足利藤氏(足利晴氏の子)らを庇護して、権威をも手に入れました。
取り込んだ勢力の中には、後に里見氏を離れて再び後北条方につく者もいましたが、このときの里見義尭の手際は、あの謙信から高く評価されるのです。
実質生涯現役
里見義堯は永禄5~6年ごろ(1562~63年)に出家したとされていますが、他家の例と同じく実権は手放しませんでした。
家中でも、義尭が権力を持ち続けることには異議はなかったようです。
しかし、永禄七年(1564年)1月に第二次国府台合戦で義弘が後北条氏に敗北すると、その直後に勝浦正木氏が離反し、義尭自身もそろそろ還暦を迎えてついに決意します。
永禄7年後半から9年(1564~66年)にかけて、引退を決めたのでした。
息子・義弘に自ら体制を固めさせ、防御力を少しでも高めようとしたのでしょう。
同時に、正室のことも気にかかっていたかもしれません。
なぜならこの直後の永禄11年(1568年)、長年連れ添ってきた正室に先立たれてしまったのです。
もしかすると、ずっと以前から彼女が体調を崩していて「もう先が長くなさそうだから側にいてやりたい」とか思っていたかもしれませんね。
しかし、戦国の世で楽隠居を望むのは贅沢なことなのでしょうか。
永禄十年(1567年)8月、後北条軍がまた里見領内へ攻め込んできます。
義尭は後北条氏が佐貫城付近の三船山(現代では三”舟”山)に砦を築こうとしているのを察知し、建築が終わる前にここを襲撃して妨害。
対して後北条軍は兵を分け、義弘のいる佐貫城と義尭がいる久留里城を同時に攻めることで対抗してきました。
義弘は佐貫城から打って出て、三船山にいた後北条軍と激闘の末に勝利を収めます。
義尭も安堵したことでしょう。
里見氏では「後北条氏と再び結ぶことはない」と決めていたようで、この後永禄12年(1569年)に謙信が後北条氏と同盟を結んだ後も、徹底して敵対し続けています。
そのために武田信玄と接近しているくらいガチです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
房総半島に大きな勢力圏を築き上げた義尭。
亡くなったのは1574年6月19日(天正2年6月1日)のことでした。
長篠の戦いのおおよそ1年前くらいにあたります。
そこからの里見氏については、息子・義弘の記事で改めて触れることにしましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
黒田基樹『戦国武将列伝2 関東編【上】』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典
ほか