斎藤孫四郎

絵・小久ヒロ

斎藤家

なぜ道三の次男・斎藤孫四郎は兄の義龍に殺されたのか 骨肉の家督争いが勃発

2024/11/11

「蝮の道三」こと斎藤道三には、十数名の子供たちがいたとされます。

しかし、テレビ番組やフィクション作品で注目されるのは、長男・斎藤義龍と、織田信長に嫁いだ帰蝶の2人だけ。

他のきょうだいたちは、これまでほとんど存在感ゼロでした。

そんなドマイナーだった道三の息子たちが、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でようやく出番が回ってきました。

斎藤道三の息子たち

【長男】斎藤義龍

【次男】斎藤孫四郎

【三男】斎藤喜平次

弘治元年(1555年)11月12日に亡くなった次男の斎藤孫四郎と三男の斎藤喜平次です。

本稿で注目したいのは、そのうちの次男・斎藤孫四郎。

『美濃国諸旧記』という史料では義龍のことを「道三の実子ではない」と明記しており、その場合、孫四郎が長男になる可能性もありました。

残念ながら『美濃国諸旧記』は誤りの多い史料であり、すべてを鵜呑みにするわけにはいきません。

斎藤道三/wikipediaより引用

それを踏まえた上で『美濃国諸旧記』の孫四郎像を確認していきましょう。

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斎藤孫四郎に「左京亮」を名乗らせ跡継ぎに

まずは『美濃国諸旧記』における斎藤家・家督継承の流れを追ってみましょう。

――斎藤孫四郎は、道三の実子であり、お気に入り。家督継承順位の低い次男でも、孫四郎に後継を託したいと考えていた。

しかし、美濃国内にいた武士の大半は土岐氏に恩のある者たちである。

義龍の父とされる土岐頼芸はその当主であり、道三もやむなく義龍を後継者にしていた。

斎藤義龍/wikipediaより引用

ただでさえ道三は、土岐頼芸を追放して国内の土岐氏派閥に反感を抱かれている状況であり、これ以上、彼らの神経を逆なでするのはマズいという判断だったのであろう。

道三は仕方なしに義龍を後継者としたわけで、本心では孫四郎を気に入っていた。

同時に、孫四郎の弟である斎藤喜平次を寵愛していた。

そうした状況の中、美濃国内では次第に道三の権力が浸透しはじめ、義龍に家督を譲った時期に顔色をうかがっていた土岐氏派勢力を恐れる必要が薄れてくる。

道三はついにある決断をくだす。

息子である孫四郎に「左京亮」を名乗らせ、跡継ぎにしようと計画した。

道三にしてみればかねてからの悲願であり、同時に孫四郎にとっても悪い話ではなかった。

 


「あなたは道三の実子ではありません」

計画を練り上げた道三は「もう義龍なんぞどうでもイイ」と思ったのであろうか。

目に見えて態度を硬直化させ、さすがに義龍も違和感を抱き始める。

実はこの時まで義龍は「自分が道三の実子ではない」ことは知らず、父の態度の急変を受け、ついに近臣の日根野弘就、長井道利に相談を持ちかけたのだ。

そこで秘密を打ち明けられた。

「あなたは道三の実子ではありません。道三は、あなたの仇です」

かくして義龍は道三追討を決意するのであった――。

以上が『美濃国諸旧記』を参考にしてまとめた、斎藤家・家督継承の流れです。

ほかの史料と整合性が取れない部分も多く、すべてを鵜呑みにはできないのですが、道三が義龍を軽んじ、孫四郎を可愛がっていたという話までは、ある程度、信じてもよさそうな気がします。

問題は、義龍挙兵の動機でしょう。

義龍は弘治元年(1555年)の時点で、自身の名を【父殺し】を比喩する「范可(はんか)」と改名しています。

これは言うまでもなく自ら「道三を父と認めて」の改名であり、土岐頼芸の子であればわざわざ着ける必要ない――そう指摘されているのです。

そもそも「義龍が実子ではない」という説自体が江戸時代後期から確認されるようになったと言われています。

上記『美濃国諸旧記』の説は前提からかなりアヤシイんですね。

 

義龍に謀殺された孫四郎と喜平次

いずれにせよ自身の立場を守るため、義龍が道三との対立を決意したのは事実。

彼は手始めに、邪魔者でしかなかった斎藤孫四郎・斎藤喜平次という二人の弟を消し去ろうとします。

弘治元年(1555年)、「病気になった」と称して稲葉山城に引きこもり、弟二人を「宴の用意がある」として城の屋敷に招待したのです。

宴も進行して、二人に酒が入った頃を狙ったのでしょう。

義龍は日根野弘就に命じ、二人を殺害させました。

なお、この「孫四郎と喜平次の殺害」については、史料によってその方法がまちまちです。

仮病と称して見舞いに呼び寄せたというものや、宴を理由に二人を招いたというもの。

中には、殺害を実行したのは義龍の寵臣だった日根野弘就とするものだったり、あるいは長井隼人正も共犯であったなど、色々と語られました。

このとき義龍は27才。

孫四郎と喜平次は20歳前後だったと推測されます。

弟二人の殺害を無事済ませた義龍は、あらためて道三への反発をハッキリと表明。

翌弘治2年(1556年)には【長良川の戦い】で父を打倒し、美濃国における地位を盤石なものとします。

※以下は「長良川の戦い」関連記事となります

長良川の戦い
長良川の戦いで道三と義龍が激突! 親子で分裂した斎藤家はその後どうなった?

続きを見る

 

んで、結局、誰の子なん?

なお「義龍は道三の息子か否か」という問題ですが……。

彼の母とされる深芳野の記事で詳しく分析させていただきました。

深芳野
夫の斎藤道三と息子の義龍が殺し合い~深芳野は美濃に災いをもたらす美女だった?

続きを見る

簡単に要点をまとめると

【斎藤義龍は誰の子?】

・成り上がり者でしかない斎藤道三の息子だと、周囲からナメられて不利益なことが多い

・名門土岐氏の出身(土岐頼芸の息子)だという噂がある

・だったら、もうそれに乗っかり、美濃支配者の正当性をアピールしちゃおう♪

というもので、義龍は意外とクールに対応していたのでは?という見方もあります。

まぁ、多感な中学生でもないですしね。

ウソの百や二百、涼しい顔してつけなければ戦国大名とは言えないでしょう。

なお、孫四郎は『信長公記』にも登場しており、実在していたのは間違いなさそうです。

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【参考文献】
『美濃国諸旧記』
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon
木下聡『美濃斎藤氏 (論集 戦国大名と国衆)』(→amazon

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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