天和元年(1681年)11月22日は、沼田藩主の真田信利が改易された日です。
姓名からピンと来られた方もおられましょう。
この方はドラマ『真田丸』の主人公・真田幸村(信繁)――その兄である真田信之の孫にあたり、つまりは真田昌幸のひ孫になりますね。

真田信利/wikipediaより引用
ただし、長庶子※系列だったために、話がこじれていくわけで……さっそく本題に入りましょう。
※長庶子……正室ではない女性から長男
庶子とはいえ自分は信之の血筋である!
真田信利は、信之の長庶子である父・信吉の代から、真田本家の松代藩ではなく、分領である沼田を持っていました。
信吉の次は、信利の兄・熊之助が継承。
この熊之助が幼くして亡くなったため、真田信利が沼田を引き継いだのです。
しかし、信利も当時三歳だったため、信之の次男かつ嫡子である信政(信利から見ての叔父)がしばらく沼田の政治を執り行いました。
真田信之が引退すると、信政は本家の領地・松代藩を継ぎ、信利が沼田を継ぎます。

真田信之/wikipediaより引用
そして、その二年後に信政が亡くなったあたりからややこしいことになりました。
信之がまだ存命中だったので、まず松代藩は信之の判断を仰ぎ、信政の子・真田幸道に跡を継がせることにします。
幕府へもそのように届け出ています。
しかし!
これに不服を申し立てたのが信利でした。
幕府としては遺恨を残したくない
信利は、自分が松代藩を継ぐべきだと主張。
この時点で自身は23歳、幸道はまだ1歳でしたので、年齢や「庶子とはいえ、自分はお祖父様の長子の血筋である」ということを主張したのでしょう。
信利の正室の実家や幕府のお偉いさんもこれをもっともと思い、信利側についたのですが、幕府は最終的に幸道の相続を認めました。

真田幸道/wikipediaより引用
おそらく、信之から見て側室(庶子)系列か、正室(嫡子)系列かを重視したと思われます。
とはいえ、相続争いを強引に決めて禍根を残したくないのは幕府も同じ。
アフターケアとして、幕府は沼田を独立した藩にして、信利に溜飲を下げさせようとしました。
領内は餓死者も出る有様
が、これをスンナリ飲めなかった真田信利は無茶な行動に出ます。
本家に対抗しようとして、実際の二倍以上の検地高を報告したり、沼田城に五層もの大天守閣を建てたり、江戸での屋敷も松代藩より豪華に改装したり、やりたい放題振る舞ったのです。
しわ寄せが行くのは、当然沼田の領民たちです。
この時期には大飢饉が起きていたわけでもないのに、重税のせいで餓死者が出るという笑えない有様でした。
そして延宝八年(1680年)、沼田藩が江戸の両国橋回収のための木材調達を請け負ったことが導火線に火をつけます。
台風で木材が散逸してしまい、納入期限に間に合わなかったのです。
これをきっかけに領民の怒りが大爆発。
杉木茂左衛門(すぎきもざえもん)という領民が「皆のために」と、幕府への直訴が死罪になることを承知で直訴を行いました。
田中正造みたいな話ですね。
茂左衛門は遠路はるばる江戸までやってきて、直接大老を訪ねます。
しかし案の定追い払われてしまったので、頭を巡らせます。
訴状を日光にある輪王寺(三代家光のお墓があるお寺)の紋が付いた箱に入れ、茶屋に置き忘れたふりをするという奇策を用いたのです。
どこからそんなもん手に入れたのか不思議なところですが、何か別の箱を改造したんですかね。紋だけに……なんでもありません。
「決まりは決まり」で妻子と共に磔刑
茂左衛門が思った通り、茶屋の主人は「これは武家の方のお忘れ物に違いない」と考え、幕府へ箱を届け出ました。
幕府の方では開けてビックリ玉手箱(古い)、さっそく真田信利の処分を考え始めます。
ときの将軍は五代・徳川綱吉。しかも、代替わりしてやる気満々だった頃です。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
そして、信利は見事に改易されました。
本人も家族もあっちこっちの藩で預かりの身となり、せっかく豪華にした沼田城も堀も破壊。あーあ。
信利の長男・信音は後に旗本になりましたが、男子に恵まれず、代わりに継いだ一族の人も素行不良で改易されているので、コメントに困りますね。
ちなみに茂左衛門は、「決まりは決まり」として妻子とともに磔刑になってしまいました。
こんなに義侠心があって頭が回る人なら、いっそ幕府で召し抱えるなり褒美をやるなりすればよかったものを、実にもったいない話です。
赦免の使者が着く前に処刑されてしまったともいわれているのですが、どうだったのやら……。
彼のおかげで沼田の領民は助かりました。
そしてその功績は、意外なところで伝えられております。
「て」は「天下の義人 茂左衛門」
群馬県の方なら、すぐにおわかりでしょう。
「上毛かるた」の「て」で彼の名を語り伝えているんですね。
もしかしたらその経緯を知らずに覚えておられる方もいるかもしれませんが、群馬県人にとって「上毛かるた」と言えば子供の頃から誰もが五十音を暗記するほど重要な存在。
茂左衛門の義侠心は、時代を超えて人々の心に伝わっているのです。
あわせて読みたい関連記事
-

真田信之の生涯|父の昌幸や弟の信繁(幸村)と別れ 戦国を生き抜いた知略とは?
続きを見る
-

小松姫(稲姫)の生涯|忠勝の娘にして信之の妻が昌幸から真田の家を守る!
続きを見る
-

真田幸綱(幸隆)の生涯|信玄の快進撃を陰で支え 真田氏の礎を築いた昌幸父
続きを見る
-

真田昌幸の生涯|三成に“表裏比興の者”と評された謀将 その実力とは?
続きを見る
-

真田信繁(幸村)の生涯|ドラマのような英雄だったのか 最新研究から実像を考察
続きを見る
【参考】
国史大辞典
真田信利/Wikipedia





