島津義弘

島津義弘/wikipediaより引用

島津家

島津義弘(四兄弟の次男)が鬼島津と呼ばれる功績が凄い 85年の生涯まとめ

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文禄・慶長の役にも渡海し奮戦

義弘は秀吉や豊臣政権に対して協力的に接しました。

【文禄の役・慶長の役】の両方とも渡海し、奮戦しています。

ゲスい見方をすれば、秀吉にとって表向きは「島津の武勇を大陸でも見せてくれ」であり、真の狙いは「気候の違うところであれば、さすがの島津も苦戦して勢力を弱めるに違いない」というところですかね。

しかし、ここでも義弘以下の島津軍は秀吉の思うようには行きません。

朝鮮の役では戦死者の他に餓死者・凍死者が多かったのですが、元々義弘が日頃から兵を気遣う姿勢でいたこともあり、島津軍には凍死者が少なかったのです。

それでも全く被害がなかったわけではありません。

なんと朝鮮滞在中に嫡男・島津久保を病気で失っているのです……。餓死という説もありますね。

義久には男子がなく、久保が義久の娘・亀寿を正室にしていたため、島津家の次期当主とみなされていました。

そんな人物が餓死するって一体……と思ってしまいますが、久保には兵を気遣うあまり、自らを省みないところがあったのかもしれません。

慶長の役でも島津軍は他家と協力して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将を討ち取ったり、三倍以上の敵に打ち勝ったりと奮戦しています。

義弘にとって、慶長の役は久保の弔い合戦という意味もあったのかもしれません。

 

弩級のインパクト・島津の退き口

次に島津義弘の名が大々的に、そして伝説的に出てくるのは【関ヶ原の戦い】です。

敵陣、それも赤鬼こと井伊直政の赤備え部隊を突破。

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島津家得意の「捨てがまり」を最大限に活かして追手を振り切り、関ヶ原から薩摩まで帰国した撤退戦【島津の退き口】の話は、一度聞いたら忘れることができないでしょう。

敗北必至となった西軍。

そこに控えていた島津義弘は、東軍に対して背中を見せて西へ逃げるのではなく、甥の島津豊久らと東軍へ突っ込んで行きました。

彼らの行く手を遮ったのが徳川四天王の井伊直政や本多忠勝でしたから、戦いは壮絶の一言に尽きます。

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事実、井伊直政は、このときの傷がもとで死亡したとも考えられます。

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そんな死地を義弘は駆け抜け、そのまま伊勢街道から難波の港まで出ると、立花宗茂らと船で帰国しました。

途中、黒田官兵衛の黒田家に追い詰められそうになった――そんな話もあるほど逼迫した逃亡劇です。なんせ生きて帰国できたのは300人中80人とも言うのですから、死ぬ確率の方が高かった。

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島津の退き口のさらなる詳細については、以下の記事をご参照いただければ幸いです。

個人的にこのお話は、立役者の名前と共にお送りしたく思います。

島津の退き口
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なぜ退き口は成功した?

こんなムチャな撤退戦を、どうして義弘は成功させられたのか?

単に「島津家の結束が固かったから」だけでなく、「血族や家臣が身代わりになろうとするほど、日頃から義弘の求心力が高かった」と受け取るべきでしょうか。

こうして皆に生かされた義弘は、薩摩に帰ると、国境の防備を固めながら徳川家との和平に動きはじめました。

ここで退き口の際にぶん殴った井伊直政を頼ったり、代々付き合いのある近衛前久(信長と親しかった公家の人)に頼んだり、というあたりが抜け目のないところです。

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これに対し、徳川家康は「あくまでワシに逆らうのか、よろしい。ならば戦争だ」(超訳)とし、黒田・加藤・鍋島の各家を含めた3万の軍を派遣しています。しかし……。

島津家は元々が積極的に関ヶ原の西軍に参加しようとしていたわけではありません。

たまたま上方に居合わせていた義弘とわずかな兵が参戦しただけ。それも伏見城の鳥居元忠に助力(入城)を断られたなんて経緯があったことも指摘されます。

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そのため、薩摩本国には義久も健在で、精強な兵を多く残していたため、さすがの家康も最終的に「真っ向勝負は得策ではない」と判断します。

「今日はこのへんで勘弁してやんよ! ワシと義久は友達だし、あれは義弘の独断だったんだもんな^^」(超訳)

という理由で島津討伐を取りやめました。

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