1569年9月23日(永禄12年8月13日)は、立花誾千代(ぎんちよ)が誕生した日です。
父親が、戦国の雷親父こと立花道雪。
そして夫が、西の戦国最強と称される立花宗茂。

立花誾千代/wikipediaより引用
九州のビッグネーム二人を相手にして一歩も引かなかった女城主――そんな誾千代の生涯を見てみましょう。
道雪は思った「娘を男らしく育てよう」
誾千代の父・立花道雪は、37度の合戦で一度も負けがないと言われる猛将。
主君・大友宗麟の下で、まさしく無双でしたが、一つだけうまくいかないことがありました。
妻・仁志姫とは仲睦まじいながら、跡継ぎとなるべき男の子に恵まれなかったのです。

立花道雪/wikipediaより引用
しかし思考回路も根っからの戦国武将だった彼は、嘆くばかりではなく気持ちをスパッと切り替えました。
「息子が生まれないなら、娘を男らしく育てればいいじゃないか!」
そんなわけで誾千代は将来の立花家を背負って立つべく、実に男前な性格に育っていきます。
道雪も道雪で、誾千代が7歳の時には普通に跡継ぎの手続きを済ませてしまいました。
「あらあら、うふふ」で片付けられない親馬鹿っぷり、もとい用意周到さです。
というか道雪も60歳でしたので、少しでも早く御家の行末を固めておきたかったのでしょう。
カーチャンにしてみれば『この子のところにお婿に来てくれる人なんているのかしら……』と気が気でなかったとは思いますが。
高橋紹運の跡継ぎを婿にください!
だが、しかし――そこを何とかするのが道雪です。
彼は同じく大友家に仕えていた高橋紹運の息子に目をつけます。

高橋紹運/wikimedia commons
いわば婿候補ってワケですが、よりにもよってその子は高橋家の跡継ぎです。
当然のことながら紹運も「え、この子うちの嫡男なんですけど。弟もいるんで婿にするならそっちにしてほしいんですけど」(※イメージです)とやんわり断りました。
道雪は一度断られたくらいで退くような人ではありません。
再三にわたって「息子さんを(娘に)ください!!」とお願いを繰り返し、結局、紹運も折れるしかなく、嫡男を他家へ婿入りさせることになります。
それが立花宗茂です。
-

立花宗茂の生涯|西の戦国最強武将は関ヶ原で浪人となるも諸大名の嘆願で復活
続きを見る
秀吉に“西の戦国最強(東は本多忠勝)”と認定されただけでなく、仁義にも厚く、同時代の戦国武将たちから崇敬されていた人物です。
そこで最大の問題となったのが、誾千代と宗茂の相性でした。
私こそが立花家の主
跡継ぎらしく育った娘と、跡継ぎにふさわしいような気質の婿が一家族に居合わせてしまう。
誾千代は「私こそが立花家の主!」という考えを変えませんでしたし、宗茂は宗茂で「婿に来たからには当主の役目を果たさなくては!」と、お互いの責任感が真っ向からぶつかり合うことになってしまいます。
二人の年齢が同じだったことも拍車をかけたかもしれません。
戦国期は、女性の記録なんてほとんど残らないのが当たり前なので、この後、誾千代がどうしていたのかということは【関ヶ原の戦い】ぐらいになるまでハッキリしません。
秀吉による九州征伐の後、天正十五年(1587年)に宗茂が国替えを申し付けられて柳川に移った際、一緒に立花城を出たことはわかっているのです。ついでにその後に別居したことも。
ちなみに道雪は天正十三年(1585年)に亡くなっています。
娘夫婦のことを数年しか見られなかったのはある意味幸いだったかもしれません。
そのくらいなら、まだ子供が生まれなくてもおかしくはないですしね。
清正はん、あの辺に近づいたら襲われまっせ
さて、関ヶ原の際、誾千代についてとある伝説が残っています。
といっても戦に参加したわけではありません。
本戦が終わった後、居城に戻って徹底抗戦を続ける宗茂を説得するため、東軍についていた加藤清正が柳川付近にやってきました。

加藤清正/wikimedia commons
そのためには誾千代の住む宮永近辺を通らなくてはなりません。
しかし、土地に詳しい者によると「あの辺は近づかないほうがいいですよ」とのこと。
不思議に思った清正が詳細を尋ねると、こんな話でした。
「この辺の住民は立花家を慕っていますから、もし奥方であり立花家の血を直接引いている誾千代様の身に危険が迫ると思えば、皆反攻してくるでしょう」
「何それ怖い(無駄な戦をするのは趣味じゃない)」と判断した清正は、宮永付近の住民を警戒させないよう、かなり遠回りをして柳川へ向かったとか。
誾千代は自ら武装して、加藤軍と戦う素振りを見せたともいわれていますが、どっちもありえそうな話なのが何とも判断に困るところです。
ちなみに清正は見事宗茂を説得し、柳川城は降伏・開城しました。
もし宮永で住民と争いを起こしていたらどうなっていたでしょうねえ。いくら夫婦仲が悪いからといって、正室を傷つけられたら宗茂も怒るでしょうし。
宗茂改易後も別居したまま
その後、宗茂が改易されたことから誾千代も宮永を離れることになりました。
が、夫婦は一緒に暮らそうとはしませんでした。
宗茂は浪人となって清正の食客になったり、家臣と共に京都へ向かったりする一方、誾千代は現在の熊本県玉名郡で一人住まいを続けていたようです。
そしてそのまま夫婦の溝は埋まることなく、関ヶ原の2年後、慶長七年(1602年)に誾千代は34歳の若さで世を去ってしまいます。
死因についてははっきりわかっていないようです。
マラリアや赤痢らしき記録があるので、お腹を悪くして亡くなったことは間違いなさそうなのですが……伝染病だったら「誾千代の周りの人が一気に病気になった」というようなことも残っていて良さそうなものですよね。
婦人病にもお腹を下すものがありますし、そっちの可能性もなくはなさそうで。
誾千代の死因やその経緯についてはちょっと悲惨な伝説がいくつかあるので、あまり勘繰るのも可哀相な気がします。
「夫の再起を祈って毎日お参りに出かけていた」という説もあります。
関ヶ原で敗戦武将となった宗茂は、その後、元和六年(1620年)に幕府から大名としての復帰を認められます。柳川城主として10万9000石を与えられたのです。
かくして大名として奇跡の復活を遂げた宗茂は、誾千代を弔うために良清寺を建立。
現在は夫婦揃って柳川城内の神社に祀られています。
なお、立花宗茂の生涯については以下の記事にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
あわせて読みたい関連記事
-

立花宗茂の生涯|西の戦国最強武将は関ヶ原で浪人となるも諸大名の嘆願で復活
続きを見る
-

鬼道雪と呼ばれ大友家を躍進させた立花道雪は何が凄い?勇将の下に弱卒無し!
続きを見る
-

高橋紹運の生涯|戦国最強の息子・立花宗茂に劣らない勇将は岩屋城に散る
続きを見る
-

大友宗麟(義鎮)の生涯|九州覇者まであと一歩で島津に敗れた戦国大名
続きを見る
-

加藤清正の生涯|秀吉期待の子飼い大名は大坂の陣を前に不可解な最期
続きを見る
【参考】
国史大辞典
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち~70人の数奇な人生~ (光文社知恵の森文庫)』(→amazon)
歴史読本編集部 『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
火坂雅志『戦国を生きた姫君たち (角川文庫)』(→amazon)
立花誾千代/Wikipedia





