武田信虎/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田信虎は戦いの日々で甲斐を統一!なぜ息子に国を追い出されたのか?

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日本史にハマったきっかけは戦国武将。
各武将を調べていく上で避けて通れないのが「武将の父親」ではないでしょうか。

織田信長とか伊達政宗のように息子が強烈過ぎると、父のキャラは埋もれがちですが、実はトーチャンたちもスゴかった!なんてことは珍しくありません。

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その中で、今回注目したいのは武田信虎

そうです。
武田信玄の父です。

大永元年(1521年)10月16日は、武田信虎が【上条河原の戦い】に勝利した日です。

なにその合戦?
と思われるかもしれませんが、実は、信虎→信玄へと続く大事な戦いだったりします。

早速、見て参りましょう。

 

武田信虎の父や祖父から内乱勃発

武田家は、もともと源義光を祖として始まった一族です。
その子孫が甲斐に土着して武田信義が初代の甲斐武田氏となり、以降、周辺地域に親族が広がっていくなどして根付いていきました。

義光の兄・源義家の一族からは源頼朝が輩出されたり、さらに分かれて足利尊氏が出たりしています。
源氏の名門ですね。

武田信虎は、初代・源義光から数えて18代目。
その父は武田信縄と言い、戦国大名としての武田家が甲斐に権力を確立したのは信縄の時代とされています。

※記事末に甲斐武田家の系譜を掲載しておきます

しかし、明応元年(1492年)に「甲州乱国」と呼ばれるほどの内乱(お家騒動)が起き、国内は勢力争いで大いに荒れてしまうのです。

具体的には

武田信昌(信玄の曽祖父)
vs
武田信縄(信玄の祖父)

という源氏お得意「親子の争い」で、父の信昌が長男の信縄ではなく、次男の油川信恵あぶらかわのぶよしに跡を継がせることを画策したことから、跡目争いが生じたのでした。

なんだか武田信虎が
「信玄を廃して次男の武田信繁を取り立てようとした」
という話と似てますね。

身内争いが激しい源氏の血が、ここでも炸裂したのか――と思うところですが、実際は【享徳の乱(1454-1482)】に端を発する関東の争乱が甲斐にも及んでいて、武田信昌と信縄親子の対立も、その影響があったとされます。

細かい話になりますが、武田信昌が反茶々丸派で、信縄が茶々丸派。

後に伊勢宗瑞(北条早雲)が【伊豆討ち入り】と呼ばれる一件で茶々丸を切腹に追い込むことから、結果的に、武田信縄も早雲と今川氏親を敵に回します。

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一見、関係のない話ですが、これが武田信虎と関わってくるのです。

冒頭【上条河原の戦い(1521年)】で信虎が倒した相手というのは、敵対していた今川の意を受けて甲斐へ攻め込んだ福島正成くしままさしげだったのです。

 

まだ14歳の信虎に叔父の信恵が襲いかかる

では上条河原の戦いに入る……前に、もう少しだけ、それまでの流れを確認しておきましょう。

明応7年(1498年)。
中世最大クラスとも言える【明応の大地震】が発生しました。

推定マグニチュード8.2~8.4という南海トラフ巨大地震です。

「地震と武田家に何の関係が?」
と思われるかもしれませんが、当時の天災は為政者の政治や外交に影響を与えるものです。

特に明応の大地震は、もともと淡水だった浜名湖が津波に襲われ、陸地が崩れて海と繋がるほどの凄まじい規模でしたので、まさに天変地異と呼べるもの。
この地震を神意として、武田信昌と武田信縄の親子は和睦し、内紛は収まりました。

しかし、信昌と信縄の両者が亡くなると、にわかに混乱の兆しが出てきます。

信縄の跡を継いだ武田信虎がまだ14歳と若かったのです。

一時は武田家の跡を諦めた油川信恵のぶよし(信虎にとっては叔父)が、これを好機と見て、永正5年(1508年)に挙兵。

信恵は、再び武田家の家督を狙うのですが、信虎は、これをアッサリと撃退します。

叔父との争いに勝利した信虎は、油川氏傘下の小山田弥太郎も打ち破り、後に、小山田家に信虎の姉が嫁いで配下に加えます。
信玄時代の有名な家臣・小山田信茂なんかもこの一族ですね。

要は、信虎は、信玄に負けない戦上手なんです。しかし……。

 

再び今川からの脅威 ついに本拠地近くまで迫られ

永正12年(1515年)。
今度は大井信達おおいのぶさとに挙兵され、油断した信虎は大敗を喫してしまいます。

このとき今川氏が大井氏を支援して甲斐へと侵入して、勝山城を拠点にしたのですから大ピンチ。
信虎は、いつ今川氏から攻められるともわからない、軍事的圧力を受けることになりました。事実上の今川領とも言えるでしょう。

しかし、ここからが信虎の真骨頂かもしれません。

敵対していた大井信達を再び味方になびかせ、今川氏親とも一時休戦。
その間に大井信達の娘を自身の妻とし、国内基盤の安定を進めたのです。

そして永正16年(1519年)には本拠地を躑躅ヶ崎館に移動させます(以前は甲斐国甲府の川田館)。

本拠地の移動は、利権も絡んで地元の国衆たちに反発されがちですが、このときもご多分に漏れず、信虎は一日に三ヶ所で合戦に及び、すべてに勝利する――という離れ業を達成しています。

ただそれも、相手が国衆レベルであったから可能だったことで、敵が大名家ともなればそう甘くはいきません。

大永元年(1521年)。
一時和睦していた今川が、再び甲斐へ攻め込んできました。
信虎は連敗を喫し、あわや本拠地にまで迫られる甲斐崩壊の危機を迎えるのです。

このとき攻め込んだ今川勢が福島正成くしままさしげでした。

信虎にとっても、信玄にとっても、生涯最大のピンチだったかもしれません。
というのも、信玄はこのとき母のお腹にいて、出産を控えていたところだったのです。

 

大井夫人は戦争中に信玄を出産

信虎は、身重の妻を守るため、躑躅ヶ崎館から、その背後にある要害山城へと移動させました。

よく「甲斐にはお城がない」という誤解が生じがちですが、本拠地のすぐ背後に城はあるのです。

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そして自らは福島正成との対戦に挑みます。

本気になった信虎はやはり戦上手でした。
甲府に迫ろうかという敵に対し、飯田河原の戦いや上条河原の戦いで連勝、ついに敵を撤退へと追いやります。

そして大永元年(1521年)11月3日、妻の大井夫人は無事に男児を出産しました。

勝千代――後の武田信玄です。

当時信虎には、他に男子が一人いたのですが、病弱すぎて無事に育つかどうかも怪しい状態であり、事実、ここから2年後の大永3年(1523年)に七歳で夭折しています。

後に、自身を甲斐から追い出す息子ですが、当時は知る由もありません。
跡取り候補・勝千代の誕生に心から喜んだことでしょう。

 

多難だった名門武田家の維持

今川家の勢力を完全に追い出し、更には国内の反対勢力も抑え込むことに成功した信虎。

「国内の反勢力を押さえるために戦をし、またその後始末で戦をする」というかつての「負の無限ループ」から抜け出すと、私生活も充実したのか、信玄以降も次々に子宝に恵まれます。

しかし、それが次なる災いの元でした。

信虎と信玄――二人の仲が徐々にこじれていくのです。
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