武田・上杉家

第三次川中島の戦いは真田の調略と信玄の緻密な戦術が凄まじい!

戦国武将の戦略・戦術は【城の展開】から探ると意外な事実が見えてくる――。

そんな視点から迎えた、シリーズ戦国武将の城・武田信玄

前回の【第二次川中島の戦い】では、武田・上杉両軍が硬直したまま動くに動けず、今川義元の仲介で両軍撤退となったところまでお送りいたしました。

では、武田信玄はおとなしく甲斐に帰ったの? なんて聞いたら、「戦国をナメるな! そしていぶし銀なワシを見くびるな!」と信玄公に一喝されるでしょう。

停戦の盟約など屁にも思っていないのが我らが信玄公。

早速、上杉方である北信濃衆の取り込みにかかり、緻密な攻城戦が行われました。

果たして【第三次川中島の戦い】とはいかなるものか?

合戦、スタート!

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地図上にマークされたポイントは全て城であり、第三次川中島の戦いの舞台は戦線が拡大します(まずはイメージだけでも)/©2014Google,ZENRIN

 

真田兄弟の祖父が大活躍

第三次川中島の戦いで活躍するのは「真田幸隆」です。

現在は「真田幸綱」表示のほうが一般的ですかね。

皆さんご存知、真田昌幸の父ちゃんであり、真田信之真田信繁真田幸村)のじいちゃん。

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彼等の本拠地は信濃の小県(ちいさがた)郡にあり、一時は北信濃の名主・村上義清に追放されて上野国(群馬県)に身を寄せたりしていました。

それが武田信玄の傘下に入った頃から徐々に盛り返し、しまいには調略だけで堅城「砥石城」から宿敵・村上義清を追い出し、積年の恨みを果たしたという筋金入りのアウトローです。

信玄が力攻めでも落とせなかった砥石城/wikipediaより引用

信玄は村上義清と対決していたときから幸綱を北信濃方面の先鋒として送り出していました。

まるで地獄から帰ってきたかのように六文銭の旗をチラつかせて北信濃に帰還した真田幸綱。

地元の国人衆は尋常じゃないサバイバル能力を認めたでしょうし、村上義清無き今、現状に不満を抱く彼らにとっては、お近付きになりたい人物だったことは間違いないでしょう。

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特に

「本家とうまくいっていない」

「相続が少ないわりに軍役が多い」

「現当主がバカだ」

といった現状に悩み多き「分家筋の国人衆」にとって真田幸綱は救いの神。

幸綱はそんな彼等に向かって説きます。

幸綱'sポイント

「悪いのは君じゃない。

村上や上杉なんぞを名主に仰ぐ無能な本家筋が悪い。

うち(真田家)なんか長年不遇だったけど武田に味方した途端に運が開けたんだぜ。

甲州人の下につくのが不服?それなら武田を利用してやると考えればいいのさ。

お館様も大いに構わないと言っている。

君も武田に味方してその不遇な生活とおさらばしようぜ」

実際、名主・村上義清に逆転サヨナラ弾を打ち込んだ地元出身の男の誘いです。

この説得力のある言葉に乗らない手はありません。

それに家名を残すことも家の大事です。

北信濃の国人衆がどちらに転んでも家名が残るように上杉と武田に別れる道を選んでも何の不思議もありません。

そして続々と武田方の味方になると申し出る国人衆が現れました。

彼らを総称して「信濃先方衆」と呼び、真田幸綱がリーダーとなって、その後の川中島の戦いを有利に進めて行くことになります。

 

手始めは葛山城だ

真田幸綱は第二次川中島の戦い後、早速、葛山城を拠点とする国人衆「落合氏」に調略を仕掛けます。

この葛山城は第二次のときには「旭山城」の付け城として上杉謙信も本陣を置いていた山城でしたね。

停戦の合意で旭山城はすでに破却されていますので、この葛山城が上杉の境目の城となります。

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旭山城亡き今、犀川の北部に橋頭堡を築くには葛山城の奪取が必須となります/©2014Google,ZENRIN

葛山城を拠点にしていたのは落合治吉(おちあいはるよし)という国人でした。

ここの当主がどうも分家の親戚衆とうまくいっていない――そんな噂を聞きつけた真田幸綱は、親戚衆を武田方に離反させることに成功。

葛山城攻略のお膳立てをしています。

これはほんの一例ですが真田幸綱が調略した北信濃国人衆は数多く、あまりに多過ぎて、いつ寝返りを約束したのかイマイチ分かっていない国人衆だらけです。

まぁ、そりゃ当然なんですけどね。

調略は内密にやるものです。

この第3回川中島の戦いよりずっと以前に調略に成功していた可能性もあり、主な例を挙げてみましょう。

鞍骨城くらほねじょうの清野氏(埴科はにしな郡方面・以下「松代方面」で統一)

寺尾城の寺尾氏(松代北部)

春山城はるやまじょうの綿内氏(須坂方面)
※本家の井上氏(井上城)ともめていた

鞍骨城と春山城は古くからこの地域の堅城として

「一に春山、二に雨飾、三に春山」

と数えられていた名城です。

武田方は幸綱の働きにより、戦わずして実に二つの堅城を手に入れたのです。

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埴科郡方面。松代は地域全体が山に囲まれた要塞のような土地です/©2014Google,ZENRIN

 

真田本城から松代方面へのルートを確保せよ

ここまで進めて、皆さんすでにお気づきでしょうか。

真田幸綱の調略先は松代方面が多い。

もちろん幸綱は信玄の指示通りに調略を仕掛けています。

では信玄の意図はどこにあったのでしょう?

地図をよぉくみると一本の筋が見えてきます。

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©2014Google,ZENRIN

そうです。
真田の本拠地、小県郡の真田本城から峠越えで松代方面に入るルートです。

第二次川中島の戦いのときにに、信玄の問題は善光寺平攻略ルートが犀川渡河に限定されることだ――と私は書きました。

しかし松代方面から寺尾城、春山城方面に向かい千曲川沿いに北上すれば、川中島や犀川を通過することなく越後方面へ進出することが可能になります。

これで武田信玄の戦略が大幅に広がったのです。

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