元和六年(1620年)2月24日は、本多忠勝の娘であり、真田信之の正室となった小松姫(稲姫)の命日です。
戦国時代の女性としては、帰蝶(または濃姫・織田信長の妻)やお市の方(信長の妹)、淀殿(豊臣秀吉の側室)の次ぐらいに有名でしょうか。
戦国系のゲームでもお馴染みですし、大河ドラマ『真田丸』では吉田羊さんが演じたことで話題になりましたね。
それだけに創作とされるエピソードも多いのですが……その辺も取り混ぜて、生涯を振り返ってみましょう。
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戦国最強武将・忠勝の長女
小松姫は、天正元年(1573年)に本多忠勝の長女・長子として生まれました。
父の忠勝は、立花宗茂と並んで戦国最強武将と囁かれる、家康の右腕ですね。
※以下は本多忠勝と立花宗茂の生涯まとめ記事となります
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将来の夫である真田信之とは7歳差。当時としてはちょうどいい年齢差でしょうか。
きょうだいには、もり姫、本多忠政、本多忠朝がいます。
忠勝の跡継ぎたちの姉ということも、勝ち気なイメージの元になったのかもしれません。
小松姫の幼い頃は於子亥(おねい)とか稲姫(いなひめ)と呼ばれ、歴史に登場するのは、やはり信之との結婚がキッカケです。
天正の頃(1580年代)に【天正壬午の乱】バチバチと対立していた【徳川家&真田家】の和解を図るべく、小松姫と信之(当時は真田信幸)の結婚が決まりました。
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事の経緯と、結婚した年にはいくつかの説がありますが、婿選びの際の逸話が有名ですかね。
それはこんな話です。
結婚相手候補たちの髷を掴んで顔を確認した!?
父の主君である徳川家康が、家中の若い将たちを集め、小松姫に相手を選ばせようとしました。
そのとき彼女が、一人一人の髷(まげ)を掴んで顔を上げさせて確認した……というものです。
なぜ皆が黙ってされるがままになっていたのか?
というと、小松姫が家康の養女として嫁ぐことになっていたからです。
その中で真田信幸一人だけが違う対応をしました。
「無礼な」と叱咤し、鉄扇で小松姫の顔を打ったのです。
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小松姫は信幸の気概に感動し、結婚を承知した……とされていますが、これはさすがに^^;
どっちもどっちですし、当時の常識的にヤバイので、創作でしょうね。
そもそも、信之と小松姫の結婚は真田家と徳川家の和解のためですから、結婚相手を選ぶ意味も必要もありません。
後述する関ヶ原でのエピソードと合わせて、
「小松姫は自分の意志をきっちり持っている女性だった」
ということを強調するためのものかと思われます。
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