慶安3年(1650年)9月10日は、松平忠直の命日。
幕府によって隠居させられた忠直が、預かり先の豊後(大分県)で亡くなった日です(享年)。
松平忠直の父は、家康の次男・結城秀康(福井藩祖)。
つまり家康の孫であり、三代将軍・徳川家光の従兄にあたります。
生まれた順番が優先される環境でしたら、父の結城秀康が二代目の将軍になり、忠直が三代目になる可能性もありました。
しかし秀康は母の立場が不確かな上に、若いころ秀吉の人質になり、さらに関東の結城家へ養子に出ていて将軍になることができなかったのです。
松平姓は許されたものの、その子供である忠直にも将軍になる権利は与えられませんでした。

松平忠直/wikipediaより引用
これが忠直の性格を歪ませていくことになった……といわれています。
信長も愛した「唐物肩衝茶入・銘初花」が褒美だが
かくして鬱憤の溜まる環境にいた忠直ですが、それでも世の中が落ち着くまでの間は、徳川一門としてきちんと働いていました。
大坂夏の陣であの真田信繁(真田幸村)を討ち取ったのも、実は忠直隊です。

あと一歩で徳川家康を殺すことができる!
というところまで追い詰めた幸村が力尽き、やってきた兵士に「俺の首を持ってけ」と差し出した――なんてカッコイイ逸話がありますが、あくまで伝説。
実際は、戦乱の中で福井藩士・西尾仁左衛門が討ち取り、後の首実検(首の顔を確認すること)で判明したと伝わりますね。
それ以外に、大坂城へ一番乗りしたのも忠直であり、挙げた首の数は3,000以上ともいわれています。
普通なら勲功はダントツで第一!
となるはずですが、その前の冬の陣でヘマをやらかしてしまっていたためか、褒美はなんと茶器一個でした。
ただし、これがトンデモナイ代物でありまして。
あの織田信長や足利義政も愛した「唐物肩衝茶入・銘初花」(からものかたつきちゃいれ・めいはつはな)という中国伝来の名品だったのです。

唐物肩衝茶入 銘初花/wikipediaより引用
なんせ「茶入れの王」とも呼ばれる大名物ですからね。
漫画『へうげもの』を読んでいれば、誰もが知っている一国と等しく価値の高いものです。
以下の記事に、信長が愛した価値の高い茶器をピックアップしておりますので、よろしければ併せてご覧ください。
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信長の愛した茶器と逸話まとめ|どんな名物を所持して誰に何を与えたのか?
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古田織部(重然)の生涯|信長や秀吉に仕えた『へうげもの』の茶人 その最期は切腹
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キレて初花を投げつけ、割ってしまった!
家康としては高価な品でなだめたつもりだったのかもしれません。
が、忠直にはその価値がわかりませんでした。
「あんだけ働いたのにこれだけなんて、プラマイゼロどころかマイナスじゃねーか! 部下に褒美やれねーよあのくそジジイ!!」
そうキレて初花を投げつけ、割ってしまうのです。
家臣が何とか修繕したらしく、この茶器は現存していますが、なんとも痛々しい痕跡が残っています。
これで忠直の反抗魂に火がついてしまったのか。
次は参勤交代をサボってしまいます。

園部藩参勤交代行列図/wikipediaより引用
ヤバいですね。
ご乱心主君のテンプレが出てくるのはこのあたりからです。
例えば、妊婦の腹を割いたとか、正室を殺しかけたとか。
「それ、もうどっかで聞き飽きたなぁ……」と言わざるを得ないような悪行エピソードばかりが並べられます。
領地だった福井県には
「忠直がこの上で妊婦の腹を割かせたんだよ!」
と言われている【まな板石】なんてものもあります。
強気な奥さんが黙っているでしょうか
正室の殺害未遂にしたって、とてつもなく胡散臭いものです。
松平忠直の正室は徳川秀忠の娘で、従妹にあたる勝姫という人でした。
勝姫は、お母さんの江に似たのか、名は体を表すというか、めちゃくちゃ気の強い人だったそうです。

お江(崇源院)/wikipediaより引用
そんな奥さんが殺されかけて黙っているでしょうか?
この事件は父親の徳川秀忠がまだ将軍職についていた頃の話ですから、離縁なり処罰なりを訴えることもできたはずです。
かすり傷で済んだならまだしも、勝姫の侍女が二人も身代わりに死んでいるというのですから、そうしていても不自然ではありません。
忠直が隠居させられた後、勝姫は子供と一緒に江戸に行ってしまうので、自己主張ができなかったということもないでしょう。
世間体を気にしたというなら、その話が幕府にまで伝わっている時点でアウトですよね。
となると、勝姫は噂をいいことに別居したかったのかなぁ……という気もしてきます。
秀康の系統を潰したかった幕府の陰謀とか
先述の通り、忠直はこれらの噂のせいで1623年に隠居させられてしまいます。
行き先は、地元や江戸から遠く離れた豊後。
このときも母親の説得に応じたといいます。
しかし、本当にご乱心状態だったとしたら、母親の言うことを素直に聞くでしょうか?
細かいところにツッコんでいけばいくほど、怪しさが増していきます。
こうなると、松平忠直や結城秀康の家系を潰したかった幕府の画策では?と考えたほうが個人的にはスーっと頭に入ってきてしまいます。

結城秀康/wikimedia commons
忠直が隠居した後、息子の松平光長が跡を継ぎ、すぐさま越後へ減封の上、異動させられています。
用心深い徳川家のこと。
「今後、やつから『オレんちは元々将軍になれるはずの家だったのに!』とか言われると面倒だから、早いうちに潰しとけ」とか思っていてもおかしくない気がするんです。
眼鏡男子は忠直のおかげ?
根拠はもう一つあります。
鳥羽野(福井県鯖江市)での治水事業の成功です。
このあたりはお父さんの結城秀康の代から開発していた地域で、松平忠直も引き継いで整備をしていました。
過去には鬱蒼とした原生林で通行にも困るようなところだったのを、きちんと奉行を任命し開拓させたのです。
しかも、従事する者には新しく屋敷を与えたり、他の税を免除する・商売の制限をしないという気前の良さ。
おかげで人が集まり、鳥羽野一体はにぎやかな町になったのです。
鯖江=眼鏡
つまり眼鏡男子は忠直のおかげってことじゃね?
で、この開発をやっていたのが大坂の陣が終わった辺りからでした。
次第に領民の信望を得ていく忠直を、幕府が鬱陶しいと思うには絶好(最悪?)のタイミングです。
ついでにいうと、「忠直はこーんなワルモノだったよ!」という史料は忠直の死後半世紀も経ってから書かれています。
その後の史料でも忠直の所業はエスカレートする一方。
はてさて、忠直の素顔はどうだったのでしょう。
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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
菊地浩之『徳川家臣団の系図』(→amazon)
松平忠直/wikipedia






