小山評定と上杉征伐

徳川家康と石田三成/wikipediaより引用

徳川家

上杉征伐と小山評定からの家康vs三成対決~そして関ヶ原が始まった

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伏見城包囲の一報を聞いたのが小山だった

次々に西軍メンバーを整えた三成は早速行動に移します。

慶長五年(1600年)7月18日、家康が上方の留守居に残していた鳥居元忠伏見城(現・京都府)を攻撃したのです。

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もともと三成たち西軍の動きは、家康のもとへ続々と連絡が届けられておりましたが、ついに伏見城を囲まれたことが家康に知らされたのが7月24日。

このとき徳川軍は会津の手前である小山まで来ており、

コトここに至って家康は腹をくくります。

上杉ではなく三成と戦うべきか――。

しかし、今、徳川に従っている豊臣系武将たちも、いざとなったら西軍になびいてしまうかもしれない。

そこで開かれたのが【小山評定】だったんですね。

 

小山評定

会議に参加した豊臣系武将とは、前述の通り上杉征伐軍に参加した武将たちで、もう一度確認しておきますと……。

浅野幸長
福島正則
田中吉政
池田輝政
堀尾忠氏
山内一豊
中村一忠
黒田長政
加藤嘉明
藤堂高虎
生駒一正
蜂須賀至鎮

彼らです。

このとき豊臣恩顧の中でも中心的存在である福島正則が率先して「家康に味方して三成を倒す!」と言ったことから、東軍参加への流れが決まったと言います。

すると山内一豊もこう続きました。

「(上方へ向かう途中の)我が掛川城を使ってください」

掛川城とは、東海道の途中、遠江国佐野郡掛川(現・静岡県掛川市)にある一豊の居城です。

なにげに大事な申し出でした。

というのも徳川軍が、三成らのいる上方へ進軍するためためには、東海道や中山道を通らねばなりません。

その途中、もしも西軍の城主がいて徳川と対峙したら、家康としても城を陥落させねばならず、なかなか前に進めません。三成の勢力が拡大してしまうおそれがあります。

しかし、一豊が申し出たことにより他の城主も続き、結果、東海道をスンナリ進むことができたのです。

これが重要だったのは、中山道を見ればよりご理解いただけるでしょう。

徳川秀忠の徳川軍が、信州上田の真田昌幸・真田信繁(真田幸村)と戦い(第二次上田合戦)、関ヶ原の本戦に間に合わなかったことはよく知られてますよね。

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この一戦のドタバタから、秀忠が時に無能扱いされたりします。

しかし実際は、徳川軍の主力で中山道を制圧する(真田を倒す)ために進軍していた――そんな見方が最近は有力視されているようです。

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ともかく豊臣系武将の意思確認をできた【小山評定】は家康の思惑通りに進んだと言えるでしょう。

 

福島や池田らが岐阜城に攻めかかり

上杉征伐を予定していたところで三成の挙兵。

そこから小山評定を経て進路を変更――。

そう決まった徳川軍は、前述の通り、二手に分かれて進むことにしました。

◆中山道部隊
→徳川系武将の主力

◆東海道部隊
→家康旗本と豊臣系武将

そして結果的に【関ヶ原の戦い】に発展するのですが、実は、最初から「関ヶ原で戦おう!」だなんて決まっちゃいません。

家康もいったんは江戸に戻って様子見します。

そもそも小山評定で徳川に従った豊臣系武将たちは、本気で西軍と戦う気があるのか?

いざとなったら裏切るのではないか?

と、確証が持てません。

そこで福島正則や池田輝政を煽って、西軍の織田秀信(三法師)と戦わせたのが【岐阜城の戦い】になります。

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