豊臣家

秀吉の「刀狩り」は実際どこまで狩ったのか~兵農分離できればOKだった?

喧嘩や暴力、ダメ絶対!
とは、わかっちゃいても、人間カッとなったときにはついつい手や足が出てしまうものです。

もし、怒りに我を忘れてしまったとき、手元に殺傷能力のある武器があったとしたら……なんて背筋の寒くなる話が日本の歴史にもありました。

天正十六年(1588年)7月8日は、秀吉が刀狩令を発布した日です。

「刀狩り」と言いますと、一昔前までは「農民から武器を取り上げて反抗できないようにしたよ!」という説が広まっていました。

が、最近では「完全に武器を取り上げるのは無理だし、実際にしてないし、兵農分離が目的だったんだよ」という説が有力になってきていますね。

さらに全国一斉に出されたものではなく、地域によって実施された時期がバラバラで、1588年のこのときは主に九州を対象にしたものでした。

例えば奥州では天正十八年(1590年)に出されております。

小田原征伐の後、奥州仕置で東北地方を平定してから行われたのですね。

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では本題へ……と行きたいところですが、その前に刀狩令の布石となりそうな法律が出されていたので、そちらにも注目しておきましょう。

 

刀狩りの前に「喧嘩停止令」→効果なかった?

刀狩令の前に出されたのは喧嘩停止令(けんかちょうじれい)というものです。

ケンカというと何となくほのぼのとしたものを想像してしまいますが、当時はまさに命がけ。

別の言い方をすれば「決闘」とか「私闘」になるでしょうか。

刃物を持ち出してくることも多く、敵討ちでなくても刃傷沙汰になることが珍しくなかったのです。

神明裁判(鉄火起請とか)ならまだ穏やかなほうでした。

いやこれも十分荒っぽいですけれども。

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そうした血なまぐさい事件を戒めるために喧嘩停止令を定めたところ、法律というより判例集に近かったため、あまり抑止力になりませんでした。

そのため、秀吉はより確実に私闘を防ぐため、刀狩令を作ったのではないかともいわれています。

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年貢滞納や一揆を起こすなぞけしからん、死刑!

さて、それでは刀狩令の条文がどんな感じだったのか見てみましょうか。

例によって超訳で見ていきましょう。

【秀吉の刀狩令(超訳)】

一つ 農民は武器を持ってはならない。武器を振り回して年貢滞納や一揆を起こすなぞけしからん、死刑!

一つ 取り上げた武器は溶かして方広寺大仏の釘などにする。そうすれば皆あの世でもハッピー!

一つ だから農民は農具だけを使って、代々畑仕事に精を出すこと。つまり、争いを起こさないために武器を取り上げるんだから、ありがたいと思え!

大体こんな感じです。

1588年(天正16年)7月8日に出された秀吉の刀狩り令/早稲田大学図書館所蔵貴重資料HPより引用

しかし、完全に武器を取り上げたわけではありません。

槍や弓など、刀以外の武器はそのままでしたし、「これは猪を駆除するためのモンなんで」とか「これは祭祀に使うものなので武器じゃありません」という言い訳が合法だったのです。

また、地方によっては刀狩令が出てしばらく経ってからまた刀を持てたとか。しかし……。
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