三成の最後

田中吉政/wikipediaより引用

豊臣家

関ヶ原で敗れた三成 その後はどうなった? 最後は旧知の田中吉政に捕縛されて

2024/09/20

慶長五年(1600年)9月21日、石田三成が自身の領地内で捕らえられました。

関ヶ原の戦いが起きた15日から6日間の逃亡劇というと現代では短く感じるかもしれませんが、当時の状況からすると一人でよくやったもんだという見方もできそうです。

三成は実質西軍の大将でしたから、その首を挙げなければ戦の始末がついたことになりません。

※以下は石田三成の関連記事となります

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東軍の将兵は文字通り血眼になって探したことでしょう。

加えて、この時代、戦が終われば農民も追っ手に加わります。

戦となれば田畑を避けるわけにもいきませんからめちゃくちゃになるのは当然ですし、戦果に酔った勝ち手側の軍が村を襲って略奪するのも当然とされていました。

その仕返しとして、農民が敗軍の将を襲うというのも当たり前のこと。

さらには、勝ち馬に乗ったことにしないと「敵」と見なされて攻撃されかねないので、農民だって落ち武者狩りに必死だったのです。

あの明智光秀の死因も、小栗栖で農民の落ち武者狩りに遭ったからだとされていますよね。

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ズタボロの身でそれでも佐和山城を目指す

当然、三成もその状況はわかっています。

ゆえに死に物狂いで逃げました。

大河ドラマ『天地人』では小栗旬さん演じる三成がかなりボロボロになっていましたね。

史実でも木こりの姿に身をやつし、関ヶ原の戦中から酷くなっていた下痢と闘いつつ――という壮絶な状況だったとも伝わります。

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普段のようにきちんとした食事も取れませんし、生水も飲んでいたでしょう。

ストレスと飲食状態の悪さで、体調は一気に悪化したに違いありません。

「畑で動けなくなっているところを付近の村人に助けられた」というエピソードもあるくらいです。

それでも三成は逃げに逃げ続けます。

どんなルートを辿ったのか。

はっきりしたことは今もわかっていません。

疲労困憊の本人も覚えていないかもしれませんし、以下に記す逸話も色々な伝承が混じっております。

 


衣食住よりも「家康の首が欲しい」

ともかく三成は、再起を信じて逃げた。

琵琶湖沿岸の本拠地・佐和山城(滋賀県彦根市)を目指していたことは確かでしょう。

そのため、まずは伊吹山を越えたとされます。

9月とはいえ旧暦ですし、古くはヤマトタケルが伊吹山に失敗したことが原因で死亡するほどの山です。

ただ、そこを越えれば佐和山城も近い。

ところが、佐和山城より北にある法華寺三珠院(さんじゅいん)というお寺に逃げ込みます。

自分の生まれ故郷の長浜市木之本にあり、幼い頃には勉強を教えてもらった寺でしたので、信頼できると思ったのでしょう。

ボロボロの姿で現れた三成に対し、住職は「まず何が欲しいですか」と尋ねました。

食べ物か、着るものか。この場面では、そう考えるのが普通でしょう。

ところが三成は「家康の首がほしい」と答えたと言います。

前々から大谷吉継はじめ多くの人に

「お前じゃ勝てないからやめとけ」

と言われ、その通りに大敗北した後の台詞とは思えません。

ここまで来ると、もはや崇敬の念すら生まれてきますよね。

しかし、です。

一息ついたところで、褒賞に目が眩んだ一部の村人により、三成の居場所が東軍側に漏れてしまいました。

他の説として、命がけで助けてくれた村人がいて、彼にとばっちりが行かないようわざと敵に自分の居場所を教えさせた――というものもあります。

 

元同僚の田中吉政に捕縛され

どちらが真実か。

詳細は不明ですが、この報告を受けたのは旧知の仲で元・豊臣秀吉の側近だった田中吉政という武将です。

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【佐和山城の戦い】にも参加して落城させたばかりで、後ろめたく思っていたのかもしれません。

三成が会ったことのある人間を捕縛に向かわせたり、「腹の調子が悪い」と聞いては腹痛に効くといわれていたニラ粥を用意してやったり、細かく世話を焼いています。

これは吉政の策略という説もありますが、三成も「お前に捕まるならまだマシだ」と言って、形見と称して刀をあげた――なんて話も伝わっていますので、少なくとも三成から見た吉政は信頼の置ける人物だったのでしょう。

結局、捕縛されたのは伊吹山中でした。

 

六条河原で処刑

三成はこの後、同年10月1日に京都の六条河原で処刑されます。

敗軍の将が避けられないこととはいえ、誰か助命嘆願くらいはしてあげてもいいんじゃないかという気がするのですが、残念ながらそうした記録は見つかっていません。

立花宗茂や毛利秀元のように「まだオレたちは戦えます!」と言ってくれた人はいましたが、(本来の)西軍総大将・毛利輝元がさっさと大阪城から出てしまったので、再戦は叶いませんでした。

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もし三成が最初から佐和山城ではなく、大坂城を目指していて、無事に入城できていたらまた歴史が変わっていたのかもしれませんね。

島津のように敵中突破するなどの豪胆さを見せていたら……。そんなに豪胆だったら、そもそも最初から勝っているか。

なお、三成が必死の思いで目指していた本拠地・佐和山城は、9月18日に陥落しておりました。

もちろん徳川家康に攻められたからですが、戦闘に参加したメンツがかなりキツい。

小早川秀秋をはじめとした関ヶ原の裏切り者達だったのです。

以下に詳細がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
澤宮優『戦国廃城紀行 敗者の城を探る』(→amazon
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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