小田原城は、果たしてどれだけ堅強だったのか?
戦国ファンなら誰しも一度は考えたことがおありでしょう。
北条氏政・氏直親子が籠城して、豊臣秀吉に徹底抗戦、ついに滅ぼされたのは有名な出来事ですが、なぜ彼らは素直に上洛せず滅びに至ってしまったのか。
後世になって考えれば、氏政・氏直親子の意地はあまりに馬鹿げてるようにも見えるかもしれません。
確かに【小田原征伐】は、最初から秀吉の軍勢が圧倒的でした。
秀吉は満を持して天正18年(1590年)3月1日に京都を出発。
しかし迎え撃つ北条方とて、勝算が皆無だったわけではなく、「家康と政宗が秀吉に反旗を翻せば、天下の趨勢は一瞬で引っくり返る」という期待もありました。
実際は突拍子もない話かもしれませんが、そこにすがりたい思いもあったのでしょう。
また「小田原城は難攻不落である」というプライドも強く抱いており、事実、過去には武田信玄や上杉謙信を追い返しております。
最終的に我々の城は落ちない――そんな絶対の自信があったのかもしれません。
では一体、小田原城の何がそんなにスゴイのか?
今回は、第一回城郭検定で2級(当時最高位)を取得した、お城野郎!氏に「小田原城の実力」について現地の写真を交えながら記していただきました。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
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小田原征伐の原因となった 沼田エリアはなぜ熱い?
こんにちは、お城野郎です。
小田原征伐や小田原城の話に入る前に、まずは騒動の発端となった「沼田」の事情から見ておきおきましょう。
問題となった沼田エリア。
そもそも北条はなぜここを執拗に欲しがったのか――。
沼田城は越後・信濃方面から関東への入口であり、ここを押さえれば北関東は盤石です。
このため沼田城支城の「名胡桃城」を北条方が強引に奪ったことが今回の騒動の発端だと解説されますが、
実は、秀吉の傘下でもなかった北条家が「沼田城を所望する」ということは、もうそれだけで「国境を固める=戦の準備」に他なならない状況です。
要は、軍を動かしていないだけで、「そこ(沼田)をゲットしたら、オレらの守りは完璧! 仮想敵はもちろんオマエらね!!」と言ってるようなものです。
本来であれば、真田家のように大坂へ出向き、秀吉に恭順の意を示してから同地方の安堵を得るのが正しい方法です。
したがってそれが出来ないというのであれば秀吉に喧嘩を売ってしまっているワケで、残念ながら滅亡のカウントが始まるようなもんです。
ここらの地理に明るい真田昌幸は、最初から「北条、詰んだなwww」と思っていたことでしょう。

真田昌幸/wikipediaより引用
急峻な峠や隘路の川筋に城を構築
ともかく沼田をゲットすれば完璧だったという北条の関東包囲網。
実際のところ、この広いエリアにどのような支城ネットワークを張り巡らせていたのか?
秀吉軍は基本的に西からやって参ります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
これに対し関東には、沼地を生かした忍城や利根川流域に数々の城郭があり、北条家ではこれらを整備し、同時に街道筋に寺を配置して後方の砦機能を持たせておりました。
小田原征伐のときにも、関東に散らばる100ヶ所以上の支城に兵を配したといわれています。
しかし、いくら北条家でも関東全域に十分な兵力を配置するのは不可能です。
そこで重点的に守るコトとした防衛線が、
【関東平野に至る急峻な峠や隘路(あいろ・狭い道)の川筋】
でした。
どういうことか?
国土防衛の基本は、敵地か敵地により近い国境線に城郭を築くことです。
北条家では関東北部においては天然の要塞・沼田城を手中にすることで、兵力を一か所に集中することができるばかりか、肥沃な北関東の土地と利根川の水運、街道をまとめて掌握できました。
沼田城の他にも東山道には碓氷峠の隘路に築かれた「松井田城」、そして東海道には箱根峠の隘路に配したおなじみの「山中城」や「足柄城」などの城塞群が築かれます。
これらを第一防衛線にすることによって、効率よく兵力を運用し関東平野を守れるのですが、以下の地図がその様子です。

北から「松井田城」、「鉢形城」、「八王子城」、「足柄城」、「山中城」、「韮山城」と北条有数の城が並び、中心はもちろん小田原城となる/©2016Google,ZENRIN
北条家が気にしていたのは越後の上杉景勝でしょう。
謙信の時代には毎年のように沼田方面から関東に侵入し、刈田狼藉なども働いていた上杉。
本来ならそのルートが想定されるところですが、今回は秀吉の指示もあったと思われ、景勝は沼田方面ではなく東山道からの侵攻を選択します。
北条家の情報網も事前にこれをキャッチし、景勝が前田利家と共に川中島方面から北信濃に向かってから関東へ進軍してくることが分かっていたと思われます。

上杉景勝/wikipediaより引用
そのため北条氏政は沼田城ではなく、碓氷峠を越えた先、西上野の「松井田城」に兵力を投入しました。
さらに北条方は松井田城の後背に鉢形城や八王子城などの第2防衛線を設置し、小田原への進軍を阻む戦略です。
一方、東海道方面は、伊豆半島と箱根峠の隘路に「山中城」「韮山城」「足柄城」「鷹ノ巣城」などの城郭を整備し、最精鋭の部隊で防衛。
大軍には隘路で応戦するのは定石であり、戦国時代の人々もマンガ「キングダム」を愛読……おっと間違えた、中国の古典は頭に入っているので、この布陣は両軍共に予想できたことでしょう。
小田原城で耐えつつ少しでも有利な和睦条件を
かくしてキッチリと守りを進めた北条家。
彼らにミスがあったとすれば、それは逆にキッチリと「定石に素直すぎたこと」であり、また「城に頼りすぎたこと」ではないでしょうか。
寡兵で大軍を相手にするには、包囲されないことが最も重要です。
城塞群は互いに連携し、時には打って出ることによって、それぞれの城が各個撃破されることを防がなくてはなりません。
定石を基本にしつつも籠城するだけではなく、奇襲に次ぐ奇襲を繰り出さなければ敵の大軍は阻止できないのです。
しかし、当初は頼りにしていた徳川家康から味方になることを断られ、続けて伊達政宗までが白装束(死装束)で秀吉に臣従すると、もはや周囲には誰もいない状況……。

伊達政宗/wikipediaより引用
誰も後詰(小田原城への救援軍)に来てくれないとなれば、もう、どうやったって勝てる見込みはなくなります。
籠城作戦は、助けに来てくれる味方がいるからこそ成立します。
四方八方を囲まれ、後世にバカにされる「小田原評定(長いだけで結論が決まらない話し合いのこと)」が続きました。
実際は「できるだけ小田原城で耐えつつ、どうやったら少しでも有利な和睦条件を出せるか」ということを考えていたのでしょう。

実際、小田原城にはそれに足る強度な防御力があり、秀吉としてもいたずらに兵を殺されてまで無理攻めする理屈はありません。
城下町や街道を土塁と堀で囲む全長9キロの総構
では、本拠地・小田原城の防御力はいかほどだったのか。
詳細は後ほど申し上げますが、下記の写真は防御施設のひとつ、小田原城の空堀です。
「小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)」といいます

北条家を代表する小田原城は、空堀と土塁のセットや障子堀、そして総構(そうがまえ)が有名でしょう。
特に、全長9キロにも及ぶ総構は、この時代には珍しく、城下町や街道を土塁と堀で囲むというもの。
八幡山という、本来は詰めの城までセットで囲んでしまう壮大なものでした。
以下の写真を見れば、イメージは湧いてくるでしょうか。

江戸時代に入り、小田原城が縮小されると八幡山は切り離されて放棄されてしまいます。
が、この詰めの城こそが中世に築かれた元々の小田原城だったとも云われており、確かに八幡山は小田原城本丸よりも高い位置にあるのです。
高い地にあるということは、ここさえ押さえてしまえば他の低地部は丸裸になるわけで、おそらくそれも踏まえて北条氏は八幡山も総構の中に一緒に囲んで防御力を高めたのでしょう。
実は、小田原征伐の際、北条氏政はこの八幡山を本陣としているぐらいの要所だったのです。
八幡山は、現在、JRの線路で小田原城と切り離されてしまい、さらに本丸跡は県立小田原高校の敷地になっています。
最近、東曲輪が再現され、ここから小田原城天守や石垣山城、そして相模湾が一望できるようになりました。

復元された八幡山東曲輪より撮影!
もしも小田原に足を運ぶことがあったら、八幡山へ出向くのも一つの手ですよ。
当時の小田原城は「箱根外輪山」の山裾台地に
JR小田原駅から徒歩で数分――。
現在の小田原城へ足を運ぶと、周囲は水堀と石垣で囲まれ、白亜の天守と瓦屋根が目に飛び込んできます。
が、それはむしろ秀吉が小田原城を監視するため、同城を見下ろす位置に作った「石垣山城」の姿に近く、本来の小田原城とはかけ離れたものです。
北条家の小田原城は、先程も申し上げたように平野部の居館と山部の詰めの城、そして街道や城下町を延々と続く巨大な空堀と土塁で囲んだ城でした。
とても大きな規模ですが、さらに地図を拡大して地形まで考察してみると、当時の小田原城は、「箱根外輪山」の山裾の台地に築かれているのが確認できます。
城の理想は、平野に屹立する「独立峰」に築くことです。
が、これは往々にして交通の要衝などの適する場所にはないため、普通は台地の尾根を切り拓いて城を作ります。
金沢城や松江城、江戸城などもそうでした。
問題は、台地の尾根部分が城と同等の高さであったり、それより高くなることです。
言うまでもなく、城の最重要防御拠点が敵から見下されるような位置にあっては危険だからです。
ゆえに、そのようなウィークポイントには曲輪(防御施設)を配して、広大な縦深を構えたり、深い堀切を築きます。
小田原城も、同様に山裾側に深い堀切を築いておりました。
これを延々と繋げて、ついでに街道を掌握するため城に取り込んでしまえ!と平野部や海岸線にも構えたので、とても大きな城となったのです。
総構は「城下町ごと囲んだ」という記述はその通りです。
が、「街道を城の中に抱え込んだ」としたほうが、総構の軍事的な意味合いをより深く理解できるでしょう。
幅20~30m 堀と土塁の高低差は約12m 勾配も50度
そして、現在の小田原城のイメージでいると、大きく見誤るのが「空堀」です。
特に、秀吉と断交してから拡張した総構の空堀は必見です。
水が張っていないので、難なく堀を越えられるんじゃないか?
そう思ったら、あなたはもう空堀の底で死亡の足軽兵。
現在の姿は、未整備のまま放置された結果、雑草や木が伸び放題であったり、たとえ保全されていたとしても芝を貼って保護するなど、本当の姿ではありません。

小田原城八幡山古郭に残る空堀「小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)」
では戦国時代はどうだったのか?
実戦的な空堀は、つま先を引っかける隙間がないくらい「きれいに土をならして滑りやすく」しております。
ゆえに鎧兜と武器を持った武士が登り降りするのは至難のワザ。
もたついているうちに上から弓矢や鉄砲、煮湯、糞尿が落ちてきて、酷い目に遭い、下手すりゃ死ぬのが定番です
例えば、小田原城・八幡山の北西部、尾根部分の空堀は幅が20~30mあり、堀と土塁の高低差は約12m、勾配も50度ありました。
さらには、ツルツルにならした土でしたので、そのデータを見ただけでも難易度MAXの無理ゲーです。
完全包囲した秀吉が総攻撃ではなく相手の降伏を気長に待った理由が理解できるでしょう。
総構の本当の実力は未知数
しかしながら、秀吉が無理攻めしなかったゆえに、総構の本当の実力は未知数です。
過去に上杉謙信や武田信玄の包囲にも耐えたという戦歴は確かにあります。
が、その当時は総構がなかったですし、上杉勢については城のキワで撃退したようですが、むしろ謙信は時間切れで帰ったと考えるほうが現実に近いと思います。

上杉謙信(左)と武田信玄/wikipediaより引用
その点、秀吉は
「時間切れで帰ることはないですからぁ~! というか城も築いたし、茶々も呼んだし、茶会も開くよ! 何? 箱根には温泉もあるのか? ヒャッハー」
と降伏するまでず~っとプレッシャーかけるよ、というメッセージを暗に発しています。
北条家にしてみれば、最前線の峠の城を次々に突破され、徳川家ばかりか伊達家も助けに来ない――それが分かった時点で全面降伏すべきでした。
が、包囲されたとはいえ小田原城が完全に破られていない状況ではなかなか決断ができなかったのかもしれません。
結果、北条氏政は切腹。
北条氏直は高野山に入り、後に秀吉から1万石を与えられますが、それから程なくして亡くなりました。
「小田原評定」も難攻不落の小田原城があってこその故事だと言っても過言ではないでしょうか。
なお、伊豆から小田原へと本拠地を映した北条氏綱や、関東での覇権を圧倒的にした北条氏康など、北条五代記も以下にございますのでよろしければ併せてご覧ください。
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