諸国を放浪する浪人から織田信長に取り上げられて、あれよあれよと位人臣を極めた、稀代の天下人――。
豊臣秀吉最大の弱点は、子宝に恵まれなかったことだろう。
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幾人もの側室を持ちながら、誰も跡継ぎを授かることはできず、気がつけば齢53。
信長が光秀の凶刃に斃れた歳ともさほど変わらず、まさに「人間五十年」の最終節を迎えようとしたとき、ミラクルが起きた。
茶々が鶴松を産んだのである。
現代医学からすれば「秀吉の子ではない」とするのがこの通説。
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おそらく当の本人もその辺は重々承知していたであろう。
それでも我が子の可愛さたるや、孤独な天下人の心を充足させるには十分であり、ようやく秀吉も人並みの幸せを手に入れることができたのである。
これ以上なき不幸に見舞われたのは、その直後のことであった――。
命と権力
◆天正17年(1589年)に生を受けた鶴松こと捨丸(捨)は、「捨て子は育つ」という迷信からその名を授けられました。
しかし……早くも翌1590年には病気を患ったと言い、何かしら先天性の疾病を持って生まれたか、もともと身体の弱い子供であったことを感じさせます。
正妻の寧々さんもさぞかし困ったことでしょう。
この夫婦は、前田利家から豪姫という養女を貰い受け、大切に育てておりましたから、子供は大好きだったに違いなく……。
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◆ちなみに当時の赤子が成人になれる確率は5割に達するかどうか、というレベルでした。
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