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三木城と鳥取城のブルーシートな餓死惨劇 戦国浮世絵ANARCHY19

自軍の将兵が傷つくこと無く、敵を殲滅させれば、すなわち英雄――。

種子島に漂着した鉄砲が瞬く間に日本全国へ普及したのも、【安全に敵の命を狙えた】からでしょう。

しかし戦国時代には、さらに悲惨な戦術も広がります。

それが兵糧攻めによる餓死包囲戦。

蟻の這い出る隙もないほど敵方の城を取り囲み、外部からの兵糧運搬を徹底して防ぎ、城内の兵士たちを飢えさせるのです。

同戦術を得意としたのが織田軍であり、特に豊臣秀吉が手掛けた三木城と鳥取城の攻防戦は歴史に残る惨劇となりました。

 


たまにはド派手なフィクションだって

三木城とは、別所長治の治めていた播磨の平山城。

最初は豊臣秀吉の調略で織田軍に従っていた長治が、突如として裏切り、毛利方になびいたのがキッカケでした。

同じく鳥取城も毛利方です。

いずれも秀吉との対立から勃発した攻防戦で、その追い込み方の巧みさときたら、エゲツないほどに人情をついたものです。

まずは城近辺の米を買い漁り、高値に吊り上げたところで、城の備蓄米すらも買取へ。

首尾よく米を集めたら、今度は城周辺の村へ攻撃をしかけて、地元民たちを城へ逃げさせます。

要は「食い扶持」を増やして、米の消費を加速させるんですね。

人口が倍になれば、単純計算、籠城も半分しか持たないことになります。

秀吉と黒田官兵衛が主体となって進めた作戦とされ、狙われた三木城も鳥取城も、城内はさながら地獄絵図となりました。

 


幸村と共に突撃して家康の首を

地獄絵図とは他でもありません。

米が底をつき、城内で死んだ牛馬の肉を食し、それでも食が足りなくなり、餓死者が出ると、今度は人肉にまで手を出したとも言います。

地獄とはまさにこのことでしょう。

両城ともに、執拗な攻撃に耐えきれず、最終的には開城(降参)となりました。

餓死寸前ではそれしか道もなかったでしょう。

本稿では、そんな惨状を戦国浮世絵師・鞘ェもんに現代バージョンで再現してもらいました。

それがコチラ!

所狭しと敷地内に並べられた遺体&ブルーシート。

手前の担架に運ばれる死者は、土気色した手の平が飛び出し、戦時の過酷さを物語っています。

よく見れば「膝を曲げたまま亡くなっていた」ようで、一体どんな死に方をしたんだ?と……。

周囲の兵士や僧侶がマスクをしているのは、ウィルス対策などではなく、腐臭、死体臭が漂っているからでしょう。

血しぶき飛び交う戦場より、ある意味、残酷かもしれません。

実際に悲劇が起きた三木城・鳥取城では、開城後、飢えた城内の人たちに炊き出しが行われたとされ、中には腹が減りすぎて一気に食べた結果急死した、なんてケースもあったとか。

なぜ、そんなことになってしまったのか。

詳細は以下の記事にありますので、よろしければ併せてご覧ください。

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絵・鞘ェもん(ツイッターサイト
文・五十嵐利休


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