マンガ大賞を受賞し、アニメ版も人気の漫画『ゴールデンカムイ』
何が面白いかって、これまで漫画ではあまり注目されてこなかった北海道開拓や日露戦争の話に加えて、劇中で重要な役割を果たす【アイヌの存在】でしょう。
彼らには大きな特徴があります。
かわいそうで、無力なだけではない。
強力な意思や個性を伴ったキャラが多いのです。
◆ゴールデンカムイ描く「かわいそう」じゃないアイヌ民族:朝日新聞デジタル(→link)
例えば、ヒロインのアシリパ(「リ」は小文字)は、弓矢を使いこなし、野生動物を盛んに食べるタフな少女。
占い師のインカラマッは、美しく聡明なだけではなく、主人公と敵対する第7師団にも通じている二面性があり、「誑(たぶら)かす狐」扱いされることも。
アシリパ・父の友人であるキロランケは、日露戦争従軍経験があり、爆発物を使いこなすタフな戦士です。
全員が非常に魅力的で、多くの歴史ファンが心を奪われています。
そこで、ふと、こんな問いかけをしてみたいです。
日本とロシアが、ぶつかり始めた江戸後期から明治にかけて、アイヌは、両国にとってどんな存在だったか?
史実はどうなっとる?
漫画では、キロランケが日露戦争の戦場にもちろん日本側として立っておりましたが、史実においても大勢のアイヌが戦地に行っておりました。
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しかし、そうした話にスポットの当たること自体がレアケース。
これまで日露の間にいたはずのアイヌの人々は、なぜか歴史の暗闇に封じられておりました。
まぁ、そんな彼らの存在を取り戻し、戦う姿を描く作品が『ゴールデンカムイ』なんですけどね。
あくまでフィクションですから、史実は一体どうなっていたんだ?と気になる方もおられるでしょう。
そこで本稿では、日本とロシアに挟まれた史実のアイヌが、いかなる状況下にあったのか?に注目してみたいと思います。
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日露の緊張にアイヌは不在
幕末を、幕末にせしめたポイントは、みなさんもご存知の「開国」です。
これについて、気になることはありませんか。
ずっと鎖国政策を続けてきて問題がなかったのに、なぜ急にダメになってしまったのか。
なぜ西洋諸国は、船で乗り付け、貿易を迫るようになったのか?
これはひとえに、海運技術の向上と関係がありました。
帆船から蒸気船に変わり、捕鯨や航海、異国貿易が盛んになったから、人々は大海原へ出ることが容易となり、日本の鎖国政策が邪魔になったのです。
ジョン万次郎がアメリカ船に救出された際、帰国したいと願った彼は死や追放を覚悟しておりました。
アメリカ人も、よくボヤいていたと伝わります。
「せっかく日本人を助けて返そうとすると、鎖国だからダメって言われるんだよな」
アメリカとしては、捕鯨の時に立ち寄って真水や食料を補填し、日本人を人道的に返したかっただけのことです。
そんな中、日本の奥羽(東北)では某国の脅威をヒシヒシと感じるようになっておりました。
西洋でも、唯一日本と国境を接している大国。
日本人漂流民から日本語を習っているというその国。
ロシアです。
シベリアはじめ、東進を続けたロシアが、そのまま東に進めばどこに至るか?
言うまでもなく日本ですし、北海道や東北からやってくるのは地理的に間違いありません。
日本が恐怖心を抱くことは、宿命的であったのです。
こうした江戸後期以降のロシア恐怖症はかなり長く続き、岩倉使節団が西洋を旅することで、
「なあんだ、ロシアってそこまでヨーロッパで強くないんかい」
と、納得した部分もあったとか。
仙台藩士である工藤平助の『赤蝦夷風説考』。
同じく林子平の『三国通覧図説』、『海国兵談』といった著書はロシア脅威論だったのですが、仙台藩がここまで警戒したことには理由がありました。
元文4年(1739年)5月19日、仙台藩領。陸奥国気仙沼で不気味なものが見られました。
異国船です。
数日後にも仙台藩領でさらなる目撃情報があり、そしてついに夏には、牡鹿半島、房総半島、伊豆下田等に、ロシア船が来航するのです。
実は江戸中期。
徳川吉宗の時代に起こったこの事件は「元文の黒船」と呼ばれています。仙台藩はじめ奥羽の諸藩は、このころからロシアを脅威とみなしていたわけです。
しかし、日本とロシアの両者から抜け落ちていた人々がいます。
それがアイヌです。
日本とロシアは互いに警戒しあうばかりで、二国の間に住んでいた住人たちを無視していました。
「日本かロシアのどちらか先に手なずけたら困る」程度の扱いだったのです。
松前藩の対応でよかったのか
もしも江戸幕府が、もっと早くから本気でロシア脅威論を感じていたら?
おそらくアイヌの歴史も大きく違っていたことでしょう。
彼らとの交易を中心として北海道に置かれた松前藩は、規模の小さな藩であり、対ロシア防備という視点はありませんでした。
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貿易で儲けることがあったとはいえ、アイヌの扱いは公平とはいえません。
日本とロシアが互いに「アイヌを手なずけられたら嫌だ」と思うのは、そもそもアイヌに対してフェアな扱いをしていないという「後ろめたさ」があったからではないでしょうか。
松前藩は、アイヌの人々が暮らすアイヌモシリを支配しようという気は、ほぼありませんでした。
藩の規模からすれば、貿易相手にすればよかったのです。
しかし、その松前藩のやり方も、18世紀後半、ロシア脅威論を目にした田沼意次が、最上徳内ら探検家を派遣したことで終わります。
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松前藩の実態は、ホメられたものではありませんでした。
・場所請負商人に任せっぱなしでろくに統治していない
・ロシア対策、実質ゼロ
ほぼユルユル。
もしも田沼意次が失脚しなければ、これまた大きく歴史は変わっていたでしょうけど、結果的に、田沼は政権を去り、蝦夷地のロシア脅威論も立ち消え状態となります。
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このころの寛政元年(1789年)、アイヌと和人が衝突した「クナシリ・メナシの戦い」が発生しました。
請負商人・飛騨屋の横暴への怒りが事件の背景にありました。
飛騨屋は、経験不足なうえ、露骨にアイヌから搾取する気マンマン。
反乱を起こされて困っていると、寛政4年(1792年)、ついにあの国がやってきます。
大黒屋光太夫が、ロシアのラクスマンとともにやって来たのでした。
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彼自身の冒険はユニークですし、帰国はめでたいことです。
しかし、幕府にとっては、ついにこいつらが来たか……というものでした。
ときの権力者・松平定信は、絶対に江戸にだけは来させるなと焦りますが、それでも長崎まで来てしまい、幕府も一応交渉します。
このあとロシアから使節が来れば、開国の時期も早まっていたかもしれません。
しかしナポレオン戦争の影響もあってか、彼らの来航は途切れることになります。
むろん、これで蝦夷地を探険する外国船がいなくなったわけではありませんでした。
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