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人斬り半次郎こと桐野利秋/Wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

桐野利秋(中村半次郎)は幕末最強剣士!?「人斬り半次郎」と呼ばれた生き様とは?

更新日:

「天誅!」

そんな掛け声のもとに刀光一閃!
多くの人が闇夜の中に命を散らした幕末において、際だった暗殺者として数えられるのが「幕末の四大人斬り」です。

・河上彦斎(熊本)……人気漫画『るろうに剣心』主人公のモデル
岡田以蔵(土佐)……龍馬作品でお馴染みの剣士
・田中新兵衛(薩摩)
・中村半次郎(薩摩)

ご覧の通り、4名のうち実に半分の2名が薩摩の選出。これ、偶然だと思われますか?

答えは否で、彼の地では、示現流(じげんりゅう)や薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)という「一の太刀で敵を斃すための剣術」が幕末まで息づいていて、他藩とはレベルが格段に違った――要は、べらぼうに強かったのですね。

同じく殺人剣を修めた新選組の近藤勇をして「薩摩の初太刀は避けよ」と言わしめたほどです(詳細は以下の記事にございます)。

薩摩示現流&薬丸自顕流の怖さ、知ってます? 新選組も警戒した、一撃必殺「一の太刀」

そこで注目していただきたいのが、大河ドラマ『西郷どん』で、盗人だとして追われた見た目12~14才ぐらいの少年。大人3人を次々に木刀で打ち倒すシーンがありました。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』においても、常に西郷の周囲で牙をギラつかせている危険な剣士がおりました。

彼こそが、史実においても西郷隆盛と非常に親しかった中村半次郎
人斬り半次郎として恐れられた桐野利秋です(以降、桐野で統一)。

※以下のツイートは子役・半次郎を演じた中村瑠輝人さんです

 

苦難の少年時代

桐野利秋が誕生したのは、天保9年(1838年)のこと。父は城下士の中村与右衛門でした。

きょうだいは、早くに亡くなる兄と姉が一人ずつ。
弟に山ノ内半左衛門種国、妹に伊東才蔵の妻がおりました。
半次郎は、ちょうど真ん中にあたります。同じ上之園郷中には、三島通庸がおりました。

彼もまた、典型的な薩摩藩士でした。
すなわち、極めて貧しく。
幼少からの薬丸自顕流をみっちり習得している、と(貧しい藩士が薩摩に多かった理由は関連記事をご参照ください)。

10才の時、父が徳之島に流され、わずか5石という禄すらも召し上げとなります。
半次郎は兄を助け、さらに貧しくなった家を支えねばなりません。

しかし18才のときに兄も死去。ますます重く、家計の貧困がのしかかってくるのでした。

半次郎は無学で読み書きすらできない人物という評価もありますが、後世のイメージが強いようです。彼はなかなか利発でしたし、愚鈍とみなせる証拠はさほどありません。
ただ、当時の武士として必須とされた、漢籍や儒教の知識が若干不足していたらしく、西郷隆盛は、その点を惜しんでいました。

 

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「横木打ち」で剣の腕前を鍛え上げる

幕末に活躍した薩摩藩士は、西郷のように腕を負傷したような人物をのぞけば、その多くが薬丸自顕流の使い手でした。

前述の通り、この剣の威力は、あの新選組も警戒するほどの威力。
そんな薩摩藩士の中でも際立って強い桐野です。それがとてつもない次元であったことは想像に難くないでしょう。

個人戦闘力では幕末トップクラスではないでしょうか(もちろんガチの戦闘集団・新選組も強いワケで実際の比較は難しいですが)。

彼らが、どんな修行をしたかと言いますと、樹木を打ち付ける薬丸自顕流の鍛錬「横木打ち」をひたすら朝夕(西郷どん第1話で郷中教育の少年たちがぶっ叩いていたアレです)。

 

薬丸自顕流は、練習相手がいなくとも、ひたすら無心に横木打ちをやれば鍛えられます。
家庭的にも困窮していた半次郎は、ともかく横木を打ちまくっていたわけです。

前述の通り、薬丸自顕流を習得している時点で大変強い。
人一倍練習し、センスがあれば、それはもう滅法強くなります。

二才(にせ)時代、決闘になりそうになった中村は断りました。

刀を抜いたらタダではおさめるな――という教えのある薩摩です。
小さなことで争って、人を殺す気に、当時はならなかったということでしょう。

まるでジャンプの漫画ですけど、この決闘相手とは、親しくなりました。

 

京都の人斬り半次郎

文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従い、桐野は殺気だった京都に脚を踏み入れました。
西郷隆盛、小松帯刀らとの知遇も得て、京都で活動することになります。

そこで「人斬り」の異名を取るのです。

さぞかし新選組と激動を繰り広げたり、暗殺したり、血腥い日々を送ったように思えるでしょう。

しかし、その異名から想像されるほど、暴れていたわけでもありません。
長州藩士や土佐藩士とも交際があり、きっちりとした自分の意見も持った人物でした。

それではなぜ、人斬りと呼ばれたのでしょうか?

人を大勢斬ったから?
いいえ、むしろこれまた後世のイメージが強いようです。小説等で「人斬り」というイメージが先行してしまったのです。

確かに岡田以蔵あたりと比較しますと、そこまで斬ってはおりません。
どちらかといえば、半次郎の実像は諜報員といったところです。

恋人・村田サト(京都)と映る桐野利秋/Wikipediaより引用

 

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赤松暗殺事件はこうして起きた

慶長3年(1867年)の秋、大政奉還が起こったその季節。坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺されました。

実はこの2人の死より少し前の9月3日、薩摩藩洋式兵学の師範・赤松小三郎が暗殺されています。

彼を斬ったのが桐野利秋です。

赤松は佐久間象山を輩出した信州上田藩出身で、著名な洋学者でした。

赤松小三郎/wikipediaより引用

倒幕派、佐幕派分け隔て無く、最新のイギリス式兵学を各藩士たちに伝授。
それまでオランダ式であった薩摩藩が、イギリス式の兵学を採用するにあたり赤松は大いに尽力したわけです。

イギリス式兵学書である『英国歩兵練法』を翻訳したのも赤松であり、これには桐野の主君である島津久光も多いに喜んだと伝わります。

薩摩にとっても大恩人の赤松。
しかし、政治的思想によって、彼は難しい立場に追い込まれます。

赤松の考えは、幕府も薩摩も一体となって改革を目指すものでした。そのため、倒幕派、佐幕派分け隔て無く教えていたわけです。
しかしこの情勢となると、かえってどちらからも敵視されかねないわけです。

身の危険を察知していた赤松は、薩摩藩を辞し、上田藩に帰還する準備を始めました。

 

西郷でも止められない血の滾り

斬ると言ったら斬る――そんな性格の桐野は、赤松に憤激します。
刀の柄を叩きながら、切り捨てる算段を仲間と始めたのです。

「ここはひとつ、西郷さぁに聞いてみもそや」

自らが崇敬する西郷に計画の是非を尋ねると、即座に却下。
「ないごっな、赤松先生はわが藩の兵学師範じゃごわはんか。そげん天道にもとる話は聞いたこっも見たこっもなか」

しかし、桐野は引っ込みがつかなくなってしまいます。
刀の柄を叩いて、斬ると言ったからには、斬らずにはいられません。たとえ西郷が止めようと……。

一方、桐野がそんなことを考えているとは思わない赤松。
送別の宴会の席で、彼から子弟としての縁を切りたいと迫られます。

「敵軍に先生がいうと、本気で戦うこっができもはん」

なるほど、そういうことか。赤松は承諾し、絶縁の杯を受けました。
なにせ赤松は、これからどちらにの派につくかわかりません。
敵になったとしても、全力を尽くそう――という桐野の言葉は爽やかなことだと赤松は思ったかもしれません。しかし……。

桐野の本心は別のところにありました。
西郷は止めたものの、薩摩藩の軍事機密漏洩を防ぐという名目をつければよか、と理由まで考えておりました。

そして……。
「師弟でなにゃ、斬ってもよか」
京都で探索中、赤松に出くわした桐野は、咄嗟にピストルに手を伸ばした赤松を斬殺するのです。
この凶事は、赤松が信州へ戻る直前に起きました。

 

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会津若松城では泣きに泣いた

三条大橋にはひらひらと、赤松の罪を記した罪状が風にたなびいておりました。

「赤松先生が死んでしもたとは、残念なこっです……」
赤松の遺体は葬られ、多数の薩摩藩士が弔いました。
藩主の島津忠義(島津久光の実子)は、弔慰金三百両を遺族に贈っています。

しかしこの件に関して、薩摩藩士の間では厳しい箝口令が敷かれ、あまり世間で話題になることもありませんでした。
コトの真相が明らかになるのは、大正8年(1919年)、事件から半世紀以上経てのこととなります。

人斬りを呼ばれた理由の一端が、おわかりいただけたでしょうか。

通り名のイメージほどの数は斬っていない。
されど、西郷でも止められない。
「刀を抜いたらただでは収めるな」ですらなく「斬ると決めたらただで収めるな」という思考回路や、実際に斬れてしまう薬丸自顕流の威力は、傍から見れば相当危険なものに映ったでしょう。

このあたりが非常に強烈な印象を残すものでして。
そりゃあ人斬りと言われてしまうのも納得感があります。

ただし、桐野は、単なる冷血漢でもありませんでして。
戊辰戦争で転戦した折には、会津若松城開城跡の受け渡しの際、泣きに泣いたとされています。

彼の脳裏にあったのは、戦国時代、島津四兄弟の一人・島津義弘父子が豊臣秀吉に降伏したときのこと。
会津藩の気持ちを義弘父子に重ねてしまい、涙がこらえきれませんでした。

ありとあらゆる局面で血が滾って仕方ない熱い男ゆえに、リミッターが外れると、とことん悪い方面にも向かいかねない。
そんなタイプの男でした。

 

それは「桐野の戦争」だったのか

明治維新のあと、彼は中村半次郎から桐野利秋へと改名し、陸軍少将にまで出世します。

しかし明治6年(1873年)、征韓論が原因となって西郷が下野すると、桐野も彼について鹿児島に向かいます。
地元で畑を開墾をし、私学校で指導をしながら過ごすことになったのです。

もちろん、そのままでは済まないワケで……。

現政府への不満から、立て続けに不平士族の反乱が勃発。
迎えた明治10年(1877年)、西郷らのいる薩摩において「火薬庫襲撃事件」が起き、「西郷暗殺計画」が桐野にも伝わりました。

暗殺計画まで立てられて、桐野のような男が、どうしておめおめと引っ込むことがどうしてできましょうか。

かくして暴発する桐野らに引きずり出されるようにして、西郷は戦争に身を投じることになってしまったのです。

鹿児島暴徒出陣図・左上のほうに桐野利秋の名が見える/wikipediaより引用

後に、
西南戦争は桐野の戦争だった」
とまで言われたりします。

でも、本当にそうだったのでしょうか。
暴発しやすい短気。そんなイメージが付き纏う桐野だけに、西郷をかばうため責任を背負わせている一面も否定できないのでは?

意見が食い違い、それぞれが暴発するような局面では、誰か一人の責任に問うのは理不尽な気がしてなりません。

桐野は、最期まで西郷に付き従った側近の一人でした。
敬愛する西郷の死を見届けています。

そして1877年9月24日、額を撃ち抜かれて戦死しました。
享年40。

西南戦争を描いた錦絵、桐野の姿も見える/wikipediaより引用

 

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桐野のシルクハット

人斬りというイメージが先行し、どうにも印象が悪化してしまった桐野。
しかし、彼には南国薩摩の愛すべき「ぼっけもん(大胆な人、乱暴者)」の一面がありました。

彼はお洒落で、身の回りの品には気を配っていました。
ドラマ『西郷どん』ではボロボロの布切れに身を包む、極貧少年の姿で登場しましたが、実際は美意識が意外にも高いのですね。

軍服はオーダーメイドのフランス製。
金の懐中時計。
腰のサーベルは、銘刀・正宗を仕立て直したもので、金の鍔に銀の鞘がきらめくというもの。
体からは、フランス製香水の芳香が漂っていました。

そんな桐野は、西南戦争の最後となった「城山の戦い」において、なぜかシルクハットをかぶっておりました。

準備も十分でないまま始まった西南戦争では、服まで不足していました。
桐野は鹿児島の官舎から紳士服を略奪していたのですが、そこにシルクハットが混じっていたのです。

城山の激戦の最中、場違いなシルクハットを被っていた桐野。
悲惨な戦いですが、ちょっとユーモラスでもあります。

と同時に彼は「シルクハットの持ち主が誰なのか」、そんなことを気にしていました。

捕虜の中に、県庁職員がいると知ると、持ち主について尋ねます。
そしてその捕虜に、服を借りたことを詫びる書状を託して解放したというのですから、几帳面というか、何というか……憎めない。

人斬り、無教養、猪武者といったイメージが強い反面、情に篤く、義理堅い。
よくも悪くも「薩摩のぼっけもん」。

知れば知るほど愛着が湧いてしまう、そんな薩摩藩士の一人かもしれません。

文:小檜山青

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【参考文献】

 



-西郷どん(せごどん)特集, 幕末・維新

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