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赤松小三郎/wikipediaより引用

幕末・維新

赤松小三郎の名はもっと広まるべき!人斬り半次郎に殺された幕末の“知られざる英雄”

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「幕末四大人斬り」という言葉を聞いたことがおありでしょうか?

・田中新兵衛
(薩摩藩:1832~1863年)

・河上彦斎(かわかみ げんさい)
(肥後藩:1834~1872年)

中村半次郎桐野利秋
(薩摩藩:1838~1877年)

岡田以蔵
(土佐藩:1838~1865年)

以上の四名であり、今なおドラマや漫画のキャラとして恐怖の存在でありますが、他の人斬りと比較していささか犠牲者が少なく感じられるのが中村半次郎(別名:桐野利秋)でしょう。

大河ドラマ『西郷どん』にも登場し、西南戦争の中心人物にもなった西郷隆盛の右腕的存在。

しかし、その半次郎の凶刃にかかった人物の中には、【日本を変えたかもしれない】と称される優れた人物がおりました。

赤松小三郎――。
上田藩出身の武士であり、当時、素晴らしい先見性と学識を備えていた人物でした。

何が優れていたか?って、彼の教えを受けた者たちは、明治維新後に活躍を遂げた者が多いのです。

時に【知られざる英雄】とも評価される、この赤松小三郎とは一体何者なのか?
その生涯を追ってみました。

 

幕末の隠された英雄

幕末という時代から、150年という歳月が経過しようとしています。
それだけの時間を経たのであれば、史実はあらかた判明しており、新発見などない――。

そう思われるかもしれませんが、これがそうでもないのです。

幕末史の研究は、150年の間、ずっと行われていたワケじゃありません。
政権を担った薩長閥の言い分が重視され、彼らにとって批判的な意見は、太平洋戦争の敗北までなかなか表に出ないものでした。

要は、隠蔽されたのです。

例えば、会津藩関係者が、孝明天皇の書状を公開した際は、口止めされたり、逮捕者が出たりしました。
なぜなら書状の中に、長州藩に対する孝明天皇の苦い気持ちが記されていたからです。

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あるいは薩摩藩が殺害した明治天皇の養育係・田中河内介にまつわる話は、怪談仕立てのホラーになってしまったりしました。

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いろいろタブーがあったのはフィクションでも同様。
維新の志士を数多く葬った新選組が、ヒーローとして認識されるようになったのも戦後からです。

そして太平洋戦争が終結して70年以上が経過しても、実はまだ隠れた幕末の英傑というのは存在します。

特に、小さな藩の出身で、かつ非業の死を遂げ、語り継がれなかったような人物こそ、隠されたまま埋もれがち。
本稿で紹介する赤松は、その典型例といえましょう。

地元では遺品や書簡を中心に研究されてきた赤松小三郎。
2010年代から、彼の研究が地元以外でも進んできました。

 

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上田藩に生まれ、学問を修める

のちに赤松小三郎となる赤子は、天保2年(1831年)、信濃国上田城下に誕生しました。
西郷隆盛の3歳年下で、坂本龍馬の4歳年上。ちょうどこの二人の間と言える年回りです。

父は上田藩士の芦田勘兵衛で、赤松はその次男。
当初は清次郎と名乗り、31歳の時に小三郎と改名しております。

ちょっとややこしいですが、その7年前の嘉永7年(1854年)、数え年24歳で小三郎は赤松家に養子入りをしています。
本稿では、すべて赤松と表記しますのでご了承ください。

芦田家は貧しくとも、向学心の強い家でした。
父は藩校・明倫館の句読師(教師)で、叔母は和算家に嫁いでいます。

嘉永元年(1848年)。
江戸に出た小三郎は、内田弥太郎に算数や天文などを学びました。
仲間が寝静まってからも、灯りを布で覆って勉学に励んだと伝わる秀才タイプで、彼の数学能力は、メキメキと上達。

さらに赤松は、下曾根金三郎について蘭学・砲術を学びました。
算術が基礎としてあるわけですから、砲術にもめざましい才能を発揮したことでしょう。

 

勝海舟の門人となり、オランダ語の書物を翻訳出版

安政2年(1855年)、赤松に転機が訪れます。
勝海舟の従者「員外聴講生」として長崎海軍伝習所で学ぶこととなったのです。

長崎海軍伝習所絵図/wikipediaより引用

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当時の武士の中には、数学は商人のものだとして学ばない者もおりました。
例えば会津藩出身でのちに物理学者となった山川健次郎は、17歳になるまでかけ算の九九すら知らなかったそうです。
幕臣の勝もそうでした。

そんな勝にとって、数学を得意とする赤松は理想的な助手。
もっとも長崎に着いてからの二人は別行動だったそうですが、航海術に測量術、オランダ式兵学を精力的に学んだ赤松は、後にオランダの兵学書『矢ごろのかね 小銃彀率』等3冊を翻訳するまでになります。

しかし、ここで起きたのが「安政の大獄」でした。
上田藩主・松平忠固(まつだいら ただかた)は、当時としては先見性に富んだ人物で、「日米修好通商条約」締結を推し進めた人物でもあります。

この条約は現代では「不平等条約」として知られますが、実は幕臣・岩瀬忠震らの粘りにより、当時としては悪い条件ではありません。
悪化したのは、後の攘夷活動の活発化で、幕府が譲歩を迫られたからです。

とはいえ……勅命を無視した事実に変わりありません。
忠固と対立した井伊直弼は、この点を責め立て、程なくして忠固は失脚。安政6年(1859年)に謎の急死を遂げてしまうのです。

赤松の実力と経歴ならば、このあと派遣された咸臨丸に乗っていてもおかしくはありません。

しかし、主君ともども失脚した上田藩士に、そんなツテはありません。
赤松は上田城下に籠もり、赤松家を継ぎ、名を小三郎と改め、学究に励む日々を送ることになったのでした。

 

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英語も学んで『英国歩兵練法』を翻訳出版

失意の日々を送る赤松。
そんな中で得られるものがなかったわけではありません。

文久3年(1863年)。
松代藩士の娘・白川たかと結婚した赤松は、妻の実家・松代を訪れました。

ここで、松代藩士の佐久間象山と交流を結んだのです。

佐久間象山/wikipediaより引用

元治元年(1864年)。
長州征伐に伴う公務で、赤松は江戸へ。
ここでイギリス騎兵大尉のアプリンに出会い、英語を教えてくれるように頼み込みます。

実は赤松は、独学で英語を学んではいたのです。

アプリンが渡した英語の兵学書もわずか6日間で返却。
アプリンが驚き、怪しみ、『本当にわかっているのか?』と試すため、質問を投げかけました。

シッカリと返答する赤松に驚くばかりのアプリン。
赤松はこの後、かつて学んだ下曾根金三郎の塾に入って、イギリスの兵学書『英国歩兵練法』等の翻訳出版に励みました。
アプリンから英語を学び始めて一年ほどで、ここまで到達したのです。

こうした翻訳出版により、赤松の名声は高まりました。

更にこの頃からは、
・長州討伐をする幕政批判
・身分制度の廃止
・言論の自由を訴える等
政治批判と近代的国家へのビジョンを語るようになります。

極めて先進的な、政治体制の構想。
もしこれが早くから広まり実現していたら、明治時代は違ったものになったでしょう。

赤松は、藩主である松平忠礼にも、建白書を提出するまでになりました。

 

薩摩藩と会津藩による招聘

そんな赤松の名声を幕府も知るところになりました。
開成所の教官に採用しようと声をかけます。

が、上田藩が拒絶。
次に彼に注目したのが薩摩藩です。

薩英戦争を経て、慶応2年(1866年)にオランダ式からイギリス式へと兵制改革を進めていた薩摩藩は、英国通の人物を探し求めていました。
藩に赤松を紹介したのは、野津七次という青年薩摩藩士です。

この年の10月、赤松は京都に移り、塾を開きました。

彼が指導した藩は、薩摩だけではありません。
会津藩の砲術指南であり、先進的な考えを持つ山本覚馬も、会津洋学校へ赤松を招いています。

山本覚馬/wikipediaより引用

山本は明治維新の混乱の最中、薩摩藩邸に捕らわれております。
しかし、その先進的な知能は知れ渡っており、粗略な扱いを受けてはおりません。

薩摩と会津。
その間に赤松がいたというのは、不思議な縁を感じさせます。




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両者共に、民主主義につながる先進的な政治思想を抱いていたという共通点もありました。

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