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江藤新平/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

江藤新平41年の生涯をスッキリ解説!斬首の写真を土産物にされるほどの屈辱をなぜ?

更新日:

明治維新を成し遂げた四大勢力といえば「薩長土肥」。
ここでチョット引っかかる人がいるかもしれません。

どういうことか?

◆薩摩(鹿児島)西郷隆盛大久保利通など→わかる!
◆長州(山口)高杉晋作伊藤博文、松下村塾など→わかる!
◆土佐(高知)坂本龍馬中岡慎太郎薩長同盟の立役者→まぁ、わかる
◆肥前(佐賀)えぇと、肥後(熊本)じゃないよね……誰がおりましたっけ?

幕末ファンならいざしらず一般的には認知が低い。
それが薩長土肥の肥前藩でしょう。

しかし、特徴がないワケじゃない。
というより、かなり強い個性を持っていた。

それを見るには、佐幕派と比較するとわかりやすいかもしれません。
あくまで個人的な見解ながら、幕府サイドで肥前藩のポジションにいたのが庄内藩だと思います。

彼らは江戸警護を担当しており、会津と並んで江戸っ子や佐幕派から敬愛され、なおかつ新政府サイドに憎悪をぶつけられた存在。
にもかかわらず、幕末モノでは、ほとんど脚光を浴びることはない。

肥前藩(佐賀藩)と庄内藩。
そんな地味な両藩の共通点は、最新鋭の武器です!

幕末戊辰戦争における最強勢力は、薩摩でも長州でも、会津でもありません。

西軍ならば肥前藩。
東軍ならば庄内藩。

そんな肥前藩の中で、逸材として人気があり、更には悲運の最期を迎えた江藤新平について振り返ってみたいと思います。

なお、『西郷どん』での江藤新平は、迫田孝也さんが演じます。

なぜ鹿児島弁ネイティブの迫田さんを薩摩藩士にキャスティングしないのか。
極めて謎ですが、まぁ、そういうスタンスなのでしょう。

西郷どん:薩摩ことば指導の2人が念願の本編出演 迫田孝也「感無量」 田上晃吉“男泣き” - 毎日新聞

 

苦学の英才

江藤は天保5年(1834年)、肥前国佐賀郡の八戸村(佐賀市八戸)に生まれました。

西郷隆盛は、文政10年(1828年)生まれであり、6歳年下ということになります。
江藤と同年の幕末人としては、川路利良や広沢真臣、前原一誠、橋本左内がおります。

父・江藤胤光は佐賀藩の下士、手明鑓(てあきやり)で郡目付役。
母は浦浅子です。

「手明鑓(てあきやり)」とは佐賀藩独自の制度で、侍と徒士の間にあたります。

そんな家に生まれた江藤は嘉永元年(1848年)、16歳で藩校弘道館に寄宿。
成績は優秀でした。

母・浅子からして聡明であり、漢学の素養もあったのです。

江藤は幼い頃、この母からよく学問を学びました。
何事も相談をするのならばこの母と決めているほど、江藤は彼女を敬愛し、信頼していたと伝わります。

 

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「義祭同盟」に参加

江藤は、成長するに従って生真面目な性格になりました。

貧しいため、髪は乱れて衣類も粗末。
女中がその様子を見て笑おうとするものならば、突然大きな声で書物を暗唱しました。

ともすれば「狂人」とすら呼ばれたほど。

酒が飲めないわけではありませんが、酒宴が長引くことを嫌い、参加することはありませんでした。

こうした生真面目さは、明治以降も、終生残りました。
その性格ゆえに人と衝突することもありましたが、高潔な江藤は怯まず、孤高といえるほど清々しい生き方をしています。

しかし酒を好みトラブルメーカーでもあった父の素行も影響して、生活の苦しくなった江藤は進級しての学業続行が難しくなります。

そこで今度は、弘道館教授で儒学・国学者であった枝吉神陽(えだよし しんよう)の私塾に学ぶことになりました。

私塾でも生真面目に学業に専念した江藤は、神道や尊皇思想に傾倒。
嘉永3年(1850年)には「義祭同盟」に参加します。

「義祭同盟」とは、枝吉神陽が中心となって作られた「楠木正成・正行父子を讃える団体」です。
幕末期にこういった思想を持つ一派は、ただの思想団体ではなくて尊皇攘夷思想に傾倒しておりました。

薩摩藩の「精忠組」
長州藩の「松下村塾」
土佐藩の「土佐勤王党」
佐賀藩の「義祭同盟

といったところで、他にも大隈重信や副島種臣など、明治維新で活躍する人物が参加しておりました。

若かりし頃の大隈重信/wikipediaより引用

【関連記事】大隈重信

 

動乱と藩政改革の中で

安政元年(1854年)、江藤は弘道館を退学。
その後は、佐賀藩でも優秀な思想家として、様々な著作を発表します。

前年の嘉永6年(1853年)時点で発表した『諭鄂羅斯檄』では攘夷論者でした。
が、安政3年(1856年)『図海策』においては開国論を唱え、思想の変化もみられます。

藩内では、佐賀藩の藩政改革の波に乗り、順調に出世。
安政6年になると藩の御火術方目付となり、万延元年(1860年)には上佐賀代官手許、文久二年(1862年)には貿品方となりました。

しかし、藩内でジッとしていられないのが江藤。
文久2年(1862年)6月、長州藩の桂小五郎木戸孝允)を頼り、脱藩して京都まで行ってしまうのです。

桂小五郎(木戸孝允)/国立国会図書館蔵

この年は島津久光が上洛し、政治情勢が大きく動いていた頃でした。

しかし、脱藩は死罪に値する重大犯罪です。
彼の才能を惜しんだ前藩主・鍋島直正の温情によって、帰藩・永蟄居処分を受けました。

世間の冷たい目に晒されながら、近所の子供たちに勉強を教える日々。
そんな中でも政治的見解がなかったわけではなく、幕府による「長州征討」には厳しく反対しておりました。

慶応3年(1867年)。
永蟄居処分を許され、郡目付役に復帰。
同年暮には藩主直大(なおひろ)に先行して京都へ向かいます。

そして明治元年(1868年)2月には、江戸軍監として江戸に行き、閏四月に徴士(ちょうし)となりました。
言わば高級官僚であり、明治維新に乗り遅れることなく参加した佐賀藩は、「薩長土肥」に名を連ねることに成功したのです。




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江藤は積極的に戊辰戦争にも関与。
江戸遷都、彰義隊との戦争では徹底抗争を主張する等して存在感を示すのでした。

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