できれば毎日、肖像画を拝みたい偉人がいます。
お財布の中の福沢諭吉――。
なんて答えると、まるで笑点の大喜利ですが、不思議なことに「1万円札に描かれるほど偉いのはナゼ?」と問われると、これが案外答えにくい人物なんですよね。
慶應義塾を設立したのは知っている。
学問をススメた人ってのも何となく頭に入っている。
されど、お札になるまでなのか?と考えると、早稲田の大隈重信だって、同志社の新島襄だってよいではないか?という思いも湧いたり。
しかし、福沢諭吉のエピソードを聞くと、爽やかな慶応ボーイのイメージとは真逆の人物だったりして……なんだか興味が湧いてきません?
果たして彼は1万円に相応しい偉人なのか。
その生涯を追ってみます。
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あの蘭癖大名・島津重豪の孫が藩主にいた
天保5年(1835年)、大坂は中津藩の蔵屋敷。
福沢は、中津藩士・福沢百助と妻・順の二男として生まれました。
後にアメリカ留学し、西洋の知識を積極的に吸収する福沢には、実は生まれからそういう環境にありまして。
主君にあたる当時の中津藩主・奥平昌猷(おくだいら まさみち)は、薩摩藩の蘭癖大名・島津重豪の孫にあたる人物だったのです。
蛙の子は蛙というやつでしょうか。
昌猷の父・昌高も蘭癖大名として有名であり、さらに遡った中津3代藩主・奥平昌鹿(1744-1780)は『解体新書』の翻訳者・前野良沢を高く評価した人物でもあります。
2018年のNHK新春時代劇『風雲児達たち』では、栗原英雄さんが昌鹿を演じていましたね。
そんな環境にあった中津藩で、父・百助は出世できず、福沢がまだ2才のころ下級藩士のまま世を去りました。
「藩閥政治は親の敵」
後に福沢はこう書き残し、父の無念を振り返っています。

福沢諭吉生誕地(中津藩蔵屋敷跡)の記念碑/photo by Inoue-hiro wikipediaより引用
蘭学を学ぶ
九州・中津藩は、日本の玄関口ともいえる長崎からも地理的に近い場所です。
藩全体に、蘭学を学びやすい空気がありました。
もちろん福沢も武士の子です。
剣術や儒学も学びました。
しかし、彼の人生を決めたのは、やはり蘭学。
早くから親しんでいた福沢は、黒船来航の翌年・嘉永7年(1854年)に長崎へ遊学することとなります。
翌年には大阪に戻り、適塾に入門。
黒船来航以来、各地で蘭学熱が高まっている時期のことです。
このころ、塾生の間で人気のアルバイトが蘭和対訳辞書『ドゥーフ・ハルマ』の筆写でした。
勝海舟も同様の手段で生活費を稼いだように、蘭学熱の高まる福沢にとってもキツいながら割のいいアルバイトであったようです。
適塾での福沢は、科学や理科の実験に夢中になっていました。
情熱に燃え、探究心旺盛な若者がわいわいと学ぶ――智の梁山泊といったところですね。
そこで学問に夢中になっていた福沢ですが、そのうちに兄を失い、家督を継ぐこととなります。
本来ならば中津藩士としての務めを果たさねばならない場面。
しかし、中津藩は前野良沢の例を見ればわかる通り、蘭学を学ぶことを優先してもよい藩でした。
福沢の勉学は続きます。
黒船来航で熱気高まる江戸へ
ちょうどそのころ中津藩では、江戸で蘭学塾を開くことになりなりました。
福沢も、その計画に参加。
黒船が来航してからというもの、老中・阿部正弘は人材登用や蘭学を重視しており、中津藩もこの流れに乗ったのであります。
蘭学熱高まる江戸で、福沢はその中心地といえる蘭方医・7代目桂川甫周の家に出入りすることになりました。
ドラマ『風雲児たち』で迫田孝也さんが演じたのは4代目です。
後の大村益次郎こと村田蔵六らも出入りする桂川家で、福沢もさぞや刺激を受けたことでしょう。
福沢は、蘭学でも事足りないことを悟ります。
横浜の外国人居留地で見かけた文字が、まるで理解できなかったのです。
オランダは小国に過ぎず、今世界を動かしている列強には入っていないことを、福沢は痛感しました。
これからはイギリス、アメリカ、フランス、ロシアから学べばならない。
特に「英語の時代だ」と知ったのです。
とはいえ、当時、英語の書物入手は至難の業。
福沢もまた悪戦苦闘するのでした。
咸臨丸船上での出会い
安政6年(1859年)。
江戸幕府は、日米修好通商条約締結に伴う使節団をアメリカに派遣することにしました。
使節はポーハタン号と咸臨丸で出発し、そのうちの咸臨丸に福沢も乗船。
ナゼ乗船できたのか?
と言うと、出入りしていた桂川家と軍艦奉行並の木村喜剛が姻戚関係にあったからです(桂川甫周の妻の姉が、木村の妻)。
どうやら福沢が、桂川家経由で熱心に頼んだようで。木村の従僕という名目で参加します。
ワクワクとした気分で乗船した福沢は、船中にいたある人物に軽蔑の念を抱きました。
木村は若きエリート官僚で、海軍に関しては不得手なところもありました。
そんな彼を若造とあしらい、船酔いのストレスもあってか、イラ立ちをぶつけていた男がいたのです。
『横柄で嫌な男だ。自分は船酔いでろくに指揮も執れないくせに、何様のつもりだ?』
福沢がそう厳しい目で見た相手こそが勝海舟です。
勝は木村とは反対で、低い身分の旗本から見いだされた叩き上げの男です。
若手エリートvs叩き上げという、ありがちな対立構造。
福沢は木村の従僕ですから、何かと絡んでくる勝を、白い目で見ていたわけです。
福沢は、自分の英語が全然通じないことにショックを受けましたが、アメリカ人水夫と会話をして英語力をつけようと努力しました。
アメリカ合衆国での衝撃
アメリカに上陸した福沢は、念願の英語学習の機会を得ました。
福沢は、科学技術に関してはさほどショックを受けませんでした。
凄いとは思いましたが、事前に知識として知っていたので「なるほどな」と納得できたレベルです。
しかし、思想や政治制度には心の底から衝撃を受けました。
例えばアメリカで、ワシントンの子孫がどうなったか?と尋ねても、誰もその先を知りません。
そこからして衝撃。
日本では、徳川家康の子孫が世襲で政権を担っている一方で、アメリカでは民意による選挙で決めていたのを実感として伴ったからです。
素晴らしいお土産も得られました。
『華英通語』(中国語―英語辞典)を手に入れたのです。
和英辞典が編纂されるはるか前のことですから、中英辞典でも十分に貴重な書物となりました。
実際、この辞書を翻訳した『増訂華英通語』を福沢が出版すると、処女出版にしてベストセラーを飛ばすことになるのです。
幕臣として海外へ
福沢の高い見識をみて、木村は彼を幕府に推挙します。
これを受け、福沢はついに翻訳者として出仕することとなったのでした。
はじめは中津藩士でしたが、それから4年語には幕府直参に取り立てられ、めざましい出世。
文久元年(1861年)には、中津藩上士・土岐太郎八に気に入られ、彼の次女・お錦と結婚します。
福沢家よりはるかに格上で、家の格式を考えれば異例の組み合わせでした。
抜群の語学力を買われた福沢は、幕府の使節団として欧州にも向かうことになりました。
文久2年(1862年)、文久遣欧使節に参加。
この道中では、人種差別、帝国主義、植民地主義といった、列強の負の側面も痛感することになります。
帰国後、福沢は見聞をまとめた『西洋事情』を刊行します。
ちなみに日本ではこの頃、英国公使館焼き討ち事件が起きたり、攘夷を叫ぶテロが横行し始めます。
幕臣が見聞を深めているころ、何も知らない倒幕派はまだそんな段階にいたのでした。
まだ攘夷で消耗しているの?
ある程度、想像がつくと思いますが、福沢は攘夷が大嫌いでした。
そんなことはナンセンスで無理だということを理解しており、こうも喝破していました。
「日本のためとか言っているけど、政治的実権を握りたいからやってるだけでしょ!」
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