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【福沢諭吉】
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「痩せ我慢の説」で徳富蘇峰と炎上騒動
福沢の経歴は、勝海舟と重なる部分があります。
しかし、咸臨丸での出会い以来、福沢はともかく勝が嫌いでした。
そんな福沢が全力で勝と榎本武揚を批判した著書が『痩せ我慢の説』です。
この痩せ我慢とは、逆境にも耐えず、頑張り抜くこと。
福沢は、徳川家康を支え続けた三河武士団を讃美しました。彼は西洋流の思想を身につけていましたが、その一方で武士としての生き方にも憧れがあるのです。
それをふまえて、福沢は勝に激怒しました。
以下に概要をマトメます。
・人命を守るためというけど、戦うこともなく江戸開城とは情けないことです
・人命が失われるのは一時的なものです。しかし、勝の腰抜け行為のせいで武士道が永遠に失われてしまった。この方が甚大な損害ではないですか?
・270年も続いた幕府が、たかだが2~3の藩に屈するとはつくづく情けない。外国からも笑われてしまうでしょうねえ
・勝氏が偉いのはわかりますよ。ただ、そんな情けないことをしたうえで、のうのうと明治政府に取り入るとか、恥ずかしくないんですか? 武士の風上のも置けないというのは、こういう人のことだと思います
・榎本武揚氏、あれも最悪。函館まで転戦しておきながら、明治政府にのうのうと仕えるなんて最低です
・勝さん、榎本さん、二君に仕えて自分たちはリッチな暮らしをして、恥ずかしくないの? 悪いことは言いません。とっとと隠棲しろ、この恥さらし
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実際は流れた血も多かった江戸城無血開城~助けられた慶喜だけはその後ぬくぬくと?
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こんな調子で、勝海舟やら榎本武揚らをケチョンケチョンに貶しているわけです。
福沢さんだって、彰義隊が戦っている最中でも講義していたわけじゃないですか〜、とちょっとツッコミたくもなりますが。
福沢は「こういう説発表しますんで、よろしくお願いしますね」と勝と榎本に草稿を送り付けました。
勝も榎本も「意見合わないんだね、仕方ないね。こっちにも言いたいことあるけど、いいんじゃない。好きにしたら」とスルー。ちょっと肩すかしではありますね。
ただ、実は榎本は無茶苦茶怒っていました。みっともないので表沙汰にすることは避けていたようです。

榎本武揚/wikipediaより引用
そしてこの榎本と福沢の対立が、実はしょうもない。
福沢は、はるばる函館まで転戦した榎本に感動していました。榎本が東京で収監されると、黒田清隆とともに助命嘆願に奔走。榎本の家族に生存していると伝えたのも福沢です。
さらには見舞いに差し入れを持って行きます。ここで彼なりに気を使いました。
「榎本さんは聡明であるし、きっと読書もしたいだろう。彼の得意分野の理工系の洋書を差し入れたらどうかな?」
福沢ならではの差し入れと言えます。
ところが、この書物を見た榎本は喜ぶどころかこうでした。姉に宛てた手紙に、こんな本音が書かれていたのです。
「ケッ、なんでえ、福沢の奴ァよお。こんなハナタレのガキが読むみてえなもんを差し入れやがって!」
大秀才である榎本からすれば、とっくに読んだような初歩的なものでした。
これが原因かわかりませんが、榎本は釈放後、福沢に対して丁寧なお礼をしなかったのです。
福沢のモヤモヤした思いは、咸臨丸の石碑に、榎本のコメントが彫ってあることで燃え上がったと思われます。
かつて福沢や勝らが乗ったこの船は、明治になってからは奥羽越列藩同盟で敗れた人々や貨物を運ぶ船となりました。
そして小樽へ向かう途中、海に沈んだのです。

咸臨丸難航の図/wikipediaより引用
そんな咸臨丸にコメントする榎本に、福沢がムカっとしたことは想像がつきます。
ハァ~、本物の英雄は箱館戦争で亡くなった幕臣たちでしょ! 生きて贅沢な暮らしをしているくせに、何言ってんだお前! 感傷的なコメントで咸臨丸の思い出を汚すなァ!
福沢はしつこい性格でした。
考えてみれば、勝だって咸臨丸以来嫌いです。倒幕をダシにして、福沢が私怨をぶつけたと言えなくもなく……。
私怨も踏まえて当事者がおとなしくしていたところが、勝海舟を慕う徳富蘇峰が反論するのですから、今で言えば炎上の様相を呈します。
「戦を避けたのは、列強による諸外国への干渉を防ぐためだったんだよ!」
「ハァ? 外国が干渉する絶好のチャンスって、長州征討の時あたりにあったじゃん。幕府の権威無茶苦茶になっていたし。でも干渉してこなかったよね。そういう仮定持ち出されてもね。ま、それはさておき、勝は隠棲すべきです」
大人げないっちゅうか、むちゃくちゃ白熱してますのぅ。
とにかく勝のことが嫌い過ぎ!
実は福沢自身は、長州征討の際に外国から援助を得て介入を招きかねない状況になっても、長州を断固として叩き潰すべきだと考えていました。
幕府を潰さず、開化政策を取る。
そのためには、攘夷にこり固まった長州は叩き潰してよいと考えていたのです。
福沢は幕臣だった
明治以降の輝かしい経歴が注目されがちな福沢。
幕末よりも明治の人という印象が強くなります。

坂本龍馬/wikipediaより引用
彼は明治の教育者である前に徳川の幕臣でした。
『福翁自伝』では早くから幕府を見限っていたと書いていますが、この言葉をスンナリと信じるわけにはいきません。
幕臣時代の言動を見ると、彼は幕府を存続させた上で日本を変革する――そういう思想の持ち主だったのです。
確かに幕府には失望していました。
上野戦争は参加せず講義をしていたと語るぐらい、しらけた目で幕府瓦解を見届けたのだと主張してもいます。慶喜にくっついて駿府に行ったわけでもありません。
それでも彼には、武士としての誇りがありました。
証拠に、明治政府の出仕依頼は、断っています。福沢の明治維新に対する見方も複雑なのです。
鹿鳴館や日清戦争を批判した勝とは違い、彼は政府の基本的方針には好意的ではあります。
ただし、明治維新のやり方には怒りを秘めておりました。
幕臣として、黒船来航以来の幕府の方針を間近で見てきた福沢は、幕府の開明的な政策もよく知っていました。
福沢が西欧を視察して書物を翻訳していた頃、攘夷だなんだの暴れていた者たち。そんな連中が、自分たちが初めて思いついたかのように西欧化を進める姿を見て、どんな気持ちを抱いたか。
更には、本場でデモクラシーを見てきた福沢に、明治政府の藩閥政治はどう映ったか。
幕臣として自分が学び、歩んだ街を、西軍が蹂躙していった様子にいかなる苦渋の思いを抱いたか。
親しくつきあっていた幕臣たちが、困窮していった様子をどう嘆いたか。
福沢は、新政府に正義があり、開明的だったから勝利をおさめたとは考えていません。
ただ単に
【政治闘争を制したに過ぎないのだ】
と認識していたのです。
彼の肖像写真が和服ばかりの理由とは
彼の中には、明治の教育者としての福沢だけではなく、「幕臣としての福沢」もありました。
幕臣の福沢としては、手放しに明治政府を褒められるワケがない――。
幕臣の落魄をどう思うのか。
武士道の消滅をどう思うのか。
道を誤ったからといって、東北諸藩(奥羽越列藩同盟)をああも痛めつけた行為は正しかったのか。
本来、新政府にぶつけるべきルサンチマンが、勝や榎本に向かったのかもしれません。
勝のせいで幕府は最低最悪の滅び方をし、この国から武士道を滅ぼした、と。
彼の肖像写真は、和服のものがほとんどでした。

福沢諭吉/wikipediaより引用
鏡にうつった自分の姿を見てしみじみと、「これで大小をさしていたらな」と呟くこともあったと伝わります。
西洋的な考え方を尊びながら、彼の魂の底には、武士としての誇りがあったのです。
今日、一万円札を見ても福沢は和服を着ています。
その姿には、幕臣として、武士としての彼の誇りと魂があるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon)
安藤優一郎『勝海舟と福沢諭吉―維新を生きた二人の幕臣』(→amazon)
『国史大辞典』