近藤勇/Wikipediaより引用

幕末・維新

甲州勝沼の戦いとは? 甲陽鎮撫隊となった新選組はついに解散へ

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甲州勝沼の戦い
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近藤も土方もいろいろ試みましたが、結局増援は来ませんでした。

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いっそのこと新選組メンバーだけで徹底した訓練を行い、砲術部隊と白兵部隊に分けて、ゲリラ戦に持ち込めばまだ勝機があったのかもしれません。

実際、戦力として期待されていたであろう沖田総司が、病気療養のため江戸に引き返していたので、いずれにせよ作戦変更は難しかったでしょうけれども。

何でしょう、この八方ふさがり感。

錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』/Wikipediaより引用

一方、新政府軍は、3月1日には3,000の兵を率いて甲府城へ入っていました。

甲陽鎮撫隊も布陣を試みますが、江戸を出たときには300いた兵が121にまで減ってしまっていたそうです。

さんざんお金も使ったのに、近藤や土方が可哀想すぎて涙がちょちょぎれます。

 

トップの思い切りが良くないと下の苦労はガチで半端じゃない

3月6日、戦闘は始まりました。

展開は火を見るより明らか。江戸から引っ張ってきた大砲は新政府軍の砲撃であっという間に破壊され、それに恐れをなした兵が逃亡、甲陽鎮撫隊は戦線を維持できなくなって敗走してしまいます。

八王子付近まではある程度隊の形を保っていたものの、そこから先は中核であった新撰組のメンバーさえも散り散りになり、各自、別の道をたどることになります。

官軍が迫っている割に佐幕派の行動がアレすぎますが、おそらく「朝敵」になってしまったことで「今、積極的に参戦したら、負けた後どんな目に遭うかわからない」「もっと大勢でも長州にすら勝てなかったのに、今更勝てるわけがない」といった空気が強まってしまったからなのでしょう。

そうでなければ、せめて江戸城に残っていた抗戦派だけでも甲陽鎮撫隊に協力したのでは……。まぁ、身分の壁や差別意識などの理由で動かなかったかもしれませんし、動いていても不和を起こして結果は変わらなかったかもしれません。

錦の御旗まで持ちだされてきては、軍事的にまともな抵抗ができる可能性はなかった気はしますが。

近藤勇はその後、再起を試みますが、さすがに流れは取り戻せず、甲州勝沼の戦いから約2ヶ月後の4月25日に没します。享年35でした。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
甲州勝沼の戦い/Wikipedia

 



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