徳川昭武/wikipediaより引用

幕末・維新

徳川昭武(徳川慶喜の弟)はパリ万博へ行ってる間に幕府が消滅していた

生まれと育ちがよろしくても。
トントン拍子に行くとは限らないのが人生。

身分には大いに恵まれていたのに、時代のタイミングが合わなかった……今回はそんな人物に注目です。

慶応三年(1867年)3月7日は、徳川昭武が欧州留学でパリに到着した日です。

兄の徳川慶喜と比べると、ほとんど語られることのない方ですが、いろいろ苦労をしています。

一体どんな一生を送ったのでしょうか。

 

渋沢栄一らと共にヨーロッパへ留学

昭武は、駒込にあった水戸藩の中屋敷で嘉永六年(1853年)に生まれました。

世情の不安定さなどの理由で、幼い頃から水戸と江戸や京を行ったり来たり。10歳のときには京で佐幕派のリーダーをやっていたりします。

もし慶喜が新政府に徹底抗戦するつもりであれば、このときの縁でいろいろやらされることになったかもしれませんね。

実際には、14歳のときに清水徳川家御三卿の一つ)に養子入りして家督を継いで水戸家から出ています。同時に兄・慶喜の名代でヨーロッパへ留学することになりました。

この時のお供の一人が当代きっての経済人として知られる渋沢栄一です。

大河ドラマ『青天を衝け』主役・渋沢栄一 激動の生涯92年まとめ

続きを見る

パリについた後はナポレオン3世に謁見した後パリ万博を見物し、その後スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスで各国の王に謁見。

一周してパリに戻ってきてからはヨーロッパのあれこれを学んでいます。

当時のパリ万博/Wikipediaより引用

しかし、翌年に慶喜が大政奉還を行ったことから、昭武の立場が微妙になってしまいました。良くて一般人に格下げ、悪ければ罪人扱いになるからです。

ヨーロッパの常識で言えば、前政権の一族は皆殺しになってもおかしくはないですしね。

大政奉還を実行したのになぜ戊辰戦争は始まった?幕末混乱期のクライマックス

続きを見る

 

廃藩置県で知事を罷免され、今度は陸軍の教官に

お供の中には先に帰国する人もいました。

昭武は、慶喜から「お前はそのままそっちで勉強してなさい」(意訳)という手紙が届き、しばらくパリに残ります。

徳川慶喜(一橋慶喜)77年の生涯をスッキリ解説【年表付き】大政奉還後にも注目

続きを見る

しびれを切らした明治新政府から帰国命令書が届いたため、やむなく帰国を決意することになるのですが、最後に10日間かけてカーンやシェルブール、ナントなどを旅行したようです。

カーンは城下町、シェルブールとナントは港湾都市なので、帰国してから何かしら役立てるための視察だったのでしょうか。

ベルギーを訪問したときの昭武(左から3番目)/Wikipediaより引用

パリに戻ってきたとき、長兄で水戸藩主の慶篤が亡くなったため、跡を継ぐようにという知らせを受け取ります。

こうして昭武の留学は1年ほどで慌ただしく終わることになってしまいました。ただし、この間藩主を失っていた水戸藩では内乱状態になってしまったので、他の人々にとっては良かったかもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-幕末・維新
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.