新門辰五郎/wikipediaより引用

幕末・維新

偉大なる親分・新門辰五郎~慶喜に愛された火消しと娘・芳の爽快な生涯

「火事と喧嘩は、江戸の花!」

江戸っ子は喧嘩っ早く、見ていて面白い。火事が多いせいで、火消しの動きがキビキビしていて見惚れてしまう。

そんな意味ですね。

たくましい筋肉もあらわとなる火消し衣装は格好良く、そこに彫られた刺青も鮮やか。女性たちはうっとりとした目で、彼らを眺めたと伝わります。

さらには火消し同士の喧嘩は、江戸っ子注目の的でもあり、歌舞伎の題材にまでなったほどでした。

そんな粋な火消し「を組」の頭だった人物が、幕末史において名を残しています。

新門辰五郎――。

彼は一体どんな人物だったのか。

 

「を組」の頭、辰五郞

幕末に名を残した人物の中でも、おそらく彼は最年長の部類に入るでしょう。

辰五郞は、寛政12年(1800年)頃、江戸の中村家に生まれたとされています。

実家が燃え、錺(かざり)職人だった父が焼死してしまうという、なんとも不幸なカタチで火事との縁が出来た辰五郞は、火消しの道に進みました。

色白で酒が好き、器が大きいけれども、火消し同士の喧嘩ならば一歩も退かない。そんな典型的な江戸っ子だった辰五郞。テキパキとした男で、火消しとしての才覚は確かなものでした。

火消しいろは組/wikipediaより引用

辰五郞が名をあげたのは、文政4年(1821年)のこと。浅草で起きた火災現場で纏を立てたところ、さる大名火消しが「を組」の纏を倒したのです。

頭にきた辰五郞は、大名火消しを纏で殴り、相手の纏ごと転落させました。

慌てた「を組」の頭領・町田仁右衛門が、仲裁に入ってその場は収まりましたが、怒りの冷めぬ大名火消し側は、下手人を出すように迫ります。

そこで辰五郞は、なんと大名屋敷まで乗り込んで、胡座をかいて座ると、こう啖呵を切ったのです。

「俺ァ逃げも隠れもしねえ! 勝手にしやがれ!!」

まるで漫画ですよね。相手は辰五郞の気迫に圧倒され、何もできませんでした。

かくして大名火消し相手に一歩も退かず意地を貫いた話は、あっという間に火消したちの中で話題になり、日頃から辰五郞を気に入っていた頭領の仁右衛門は、ますます彼に惚れ込みます。

文政7年(1824年)、仁右衛門は娘の錦を彼にめあわせました。

こうして辰五郞は仁右衛門の娘婿となり、文政7年(1824年)に「を組」を継いだのでした。

 

大名火消しと大乱闘

江戸っ子、しかも火消しとなれば、ちょっとやそっとで退いたら男が廃る。弘化2年(1845年)、辰五郞にまたしてもそんな局面が訪れます。

北風が吹き荒ぶ1月、町火消し十番組を率いた辰五郞は、現場に駆けつけました。

「なんだあ、この野郎! どきゃあがれ!」
「どけとはなんだ!」

今度も相手が悪かった。

これまた気性の激しいことで知られる大名火消しだったのです。

大名自ら消火を担う「大名火消」江戸期1643年 家光の時代に設置される

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大々的な喧嘩に発展したこの争いでは死傷者まで出てしまい、辰五郞は責任を問われます。そして「江戸払」(江戸からの追放)の罰を受けてしまいました。

それでも辰五郞はしょっちゅう江戸に足を運びます。妾がいたのです。

毎日こんなことをしていたものだから、命令違反が発覚。反省の色がない不届き者として、佃島の人足寄場(今でいうところの更正施設)に送られられてしまうのでした。

 

牢屋で火災を消し止め、「遠山の金さん」に認められる

弘化3年(1846年)、辰五郞の収監された牢で火災が発生しました。

江戸時代、牢で火災が発生した場合「切り放ち」という処置がとられました。火災の際に囚人を解き放ち、罪を一等減刑し、戻らぬ者は減刑無しとする制度です。

この処置は「明暦の大火」(振袖火事)の際、牢屋奉行の石出帯刀吉深が、囚人を解放したことが始まりとされています。

振袖火事(明暦の大火)で江戸城の天守が消失!死者は少なくとも三万人以上

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このとき辰五郞は、もう一人の仲間とともに、たった二人で牢に留まりました。火の粉を浴びながらも果敢に消火活動を行い、油倉庫への類焼を防いだのです。

活躍は、「遠山の金さん」のモデルとされる北町奉行・遠山景元の耳に入りました。

「流石は火消しの頭である」

辰五郞は特赦を認められ、火消しとして名声を高めました。

 

浅草の大侠客

大名火消し相手に一歩も退かない。

牢の火災を消し止め、奉行すら感心させる。

江戸っ子は、そんな辰五郞にぞっこん惚れてしまいます。スターのような火消しの中でも、スーパースターとなったのです。

この男ぶりに惚れ込んだのは、何も火消し仲間や町人だけではありません。

上野大慈院別当・覚王院義観までもが、辰五郞の度胸に惚れ込み、浅草寺付近の取り締まりを依頼したのです。

これが何とも、うまみのある役目でして。

現在も雷門から浅草寺にかけて、仲見世にずらりと店が並んでいます。

江戸時代もそうでした。

江戸後期の雷門/wikipediaより引用

そんな繁華街の取締役になりますと、役得として、仲見世で商売をしている香具師(やし)、的屋、大道芸人から、寺銭(カスリ・ショバ代)を取れたのです。

辰五郞がこの寺銭を押し入れに毎日放り込んでいたところ、床が抜けるほど溜まりました。才覚のある辰五郞は、さらには寄席まで経営し、ますます懐がうるおったのです。

ショバ代で儲ける男というと、現代人ならば汚い奴だと思いそうです。

しかし、当時は逆。

「やっぱり辰五郞の親分は流石だねえ」
「あの人は浅草の自慢さぁ!」

と、評判は上々。取り締まるべきところできっちりと目を光らせる――そんな有能ぶりを称賛されたのです。

しかも、彼は寛大で器の大きな男です。火事場での喧嘩では一歩も退かない辰五郞ですが、普段は温厚で温和でした。それだけに……。
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