ヒュースケン襲撃の想像図(あくまで想像図です)/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末のヒュースケン殺害事件が哀しい……日本を愛したオランダ青年の予感

嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、多くの日本人は危機感を募らせました。

島津斉彬阿部正弘勝海舟のように「まずは国力強化をしなければならない」と考える者は少数派で、それよりも先に立つ感情は【外国人への反感】です。

「穢らわしい夷狄を叩き斬る!」

こうした思想は「攘夷」と呼ばれ、多くの犠牲者が出ることになります。

そんな攘夷事件の一つに「ヒュースケン殺害事件」があります。

幕府が多額の賠償金を負うことになった――。

そんな影響が語られますが『そもそも被害者ってどんな人だったの?』といった本質が意外と知られていない同事件。

振り返ってみたいと思います。

 

求む! オランダ語・英語ができる者

嘉永7年(1854年)。
日本とアメリカの間で、日米和親条約が締結されます。

対応に追われた幕府がアタフタしたことで知られますが、実はアメリカも同様でした。

初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使として任命されたのは、タウンゼント・ハリス

ペリーじゃないよハリスだよ! 日米修好通商条約を結んだアメリカ人って?

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厳格な聖公会信徒で、生涯純潔を貫いたような人物です。

そんなハリスと日本側の行き違いで「唐人お吉」の悲劇も起こったわけですが、

現在では本人ではない……との見方もある斎藤きちの写真/wikipediaより引用

今回の主役は、ハリスの通訳であるヒュースケンです。

当時、アメリカ側が頭を悩ませたのは、言葉の問題でした。

「日本人はオランダ語ならばわかるらしいが、英語は駄目。英語とオランダ語ができる通訳はいないだろうか」

そんな募集条件を見て、大いに喜んだ者がいました。

ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンです。

 

貧しい移民として苦労した

1832年、ヒュースケンは石鹸職人の息子として、オランダのアムステルダムで誕生。父の死後、一旗揚げようとアメリカに移住しました。

しかし、彼のように何のツテもない移民にとって、アメリカのニューヨークでの暮らしは楽ではありません。

オランダ人コミュニティの中で、低賃金の職を転々としながら生きる毎日。

希望の欠片もないドン底生活の日々が続き、アメリカン・ドリームは日増しに薄れていきました。

1855年、そんなヒュースケンにチャンスが訪れます。

彼はとある求人情報を見て「これだ!」と思いました。

「求む オランダ語・英語ができる通訳兼助手 赴任先:日本」

23才のヒュースケンは、この求人に応募し採用されました。

ドン底の日々にも終わりが来たぜ!と、ワクワクしたことでしょう。

「でも日本ってどんな場所だろな」

期待に胸をふくらませ、ハリスと共に日本へ向かいました。

ハリスとヒュースケンが乗り込んだUSSサンジャシント号/wikipediaより引用

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