スフィンクスと侍

池田ら一行はスフィンクスで記念撮影を(1864年)/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末の衝撃画像「スフィンクスと侍」イケメン外国奉行・池田長発がエジプトへ

2025/02/22

元治元年(1864年)2月23日は、第二次幕末・遣欧使節団池田隊(池田長発)がエジプト国王イスマーイール・パシャに謁見したとされる日です。

のっけから何だかよくわからん単語が続きますよね……。

とりあえず池田長発(ながおき)がかなりのイケメンであることは、以下の画像をご覧いただければおわかりでしょう。

池田長発/国立国会図書館蔵

「スフィンクスと侍」という写真が話題になるなど、何かと絵になった人でもあります。

そんな池田長発は、激動の幕末でいかなる生涯を過ごしたか?

まずは時代背景から見ておきたいと思います。

 


やっぱり港、閉じてもいい?

このころ日本の外交と言えば?

既にペリーが来航し、江戸幕府があっちこっちの外国から「お付き合いしましょうよ^^(でないと、どうなるかわかってるよね?)」とつつかれていた時期です。

ペリー来航/wikipediaより引用

まだ粘りたい幕府は、何とか以前の体制(鎖国≒制限外交)を保とうと、いろいろ試みていました。

具体的には一度は彼らに開放した港を、どうにかしてまた閉じたかったのです。

そこで、旗本の中でも優秀だった池田長発を団長とし、フランスに「一度は横浜を開いたけど、また閉じたいんでよろしく」(超略)という交渉させることにしました。

池田にとっては相当なプレッシャーだったでしょう。

というか、幕府の高官たちも自分たちで誰かやらんのか?という気もしますが……。

 


頭脳とマジメっぷりを活かして出世

もともと池田は小身です。

それが持ち前の頭脳と真面目ぶりを生かして火付盗賊改や京都町奉行を歴任し、外国奉行(今でいう外交官みたいな役職)に登りつめておりました。

捕物や治安維持を担当していたということは、度胸も据わっていたことでしょう。

外国人(西洋人)の彫りの深い顔立ちを「鬼」と勘違いする者も多かった当時、彼らとの交渉では肝の太さも重要な要素だったと思われます。

目鼻立ちがハッキリしていて、なかなかのイケメンです。

このくらいの時代になると、親近感がわくというか、現代でもフツーにいそうな顔の人が出てきますね。写真のおかげでしょうか。

中央が池田長発(池田筑後守)/国立国会図書館蔵

また、この直前の秋に横浜で攘夷派浪士によるフランス士官の殺傷事件(井土ヶ谷事件)が起きており、長発たちはこの件の解決も任されていました。

ことフランスに限らなければ、下関戦争や薩英戦争も、井土ヶ谷事件と同時期に頻発。

日本全体が外国・外国人に対して神経質になっていた時期といえます。

 

スエズで陸路になってから「スフィンクスと侍」

そんなこんなでフランスへ向かうことになった長発たち。

まずフランス軍艦ル・モンジュ号に乗り、海路で西へ向かいました。

途中で上海やインドに立ち寄りながらも、慣れない超長距離航路とフランス料理で、長発ですら体調を崩していたといいます。いわんや下人をや。

この道中、青木梅蔵という理髪師が日記をつけておりました。

今日の我々からすると「嘘やろwww」と思ってしまうような意味での悲惨なアレコレが書かれています。

いわゆる「シモ」の話も含まれるので、ここでは取り上げませんが、もしご興味のある方はご自身でお調べいただければ。

やっとのことでスエズにたどり着き、そこからは陸路で旅を続けました。

ここで有名な「スフィンクスと侍」の写真を撮っています。なので陸路になってからはだいぶ体調も良くなっていたのでしょうね。

スフィンクスで記念撮影する一行(1864年)/Wikipediaより引用

誰がどう説明したのかわかりませんが、数千年モノの遺跡の上に登るのはどう考えてもマズイんじゃないでしょうか(´・ω・`)

当時のエジプト王イスマーイール・パシャの感想は伝わっていないので、お咎めもなかったようです。

この頃のエジプトはスエズ運河の工事中でもあり、対外関係でもアレコレあった時期です。

そんな折、ちょっと立ち寄った東洋の使節など、相手にしている場合じゃないですね。

 


フランスでは名刺を配って日本をアピール

エジプトからは地中海を船で渡り、フランス・マルセイユに到着。

そこから陸路でパリへ向かい、ナポレオン3世に謁見しました。

結果から言うと、井土ヶ谷事件の解決・謝罪は成功し、横浜再鎖港の交渉は失敗しています。

最悪の場合、横浜が香港のように戦争でぶん取られる可能性もあったわけですから、交渉失敗くらいで済んだのはまだマシかもしれません。

ゲームに例えるとすれば、長発はメインクエストには失敗したものの、サブクエストには成功しています。

フランスで様々な学問や産業の資料を集めたり、名刺を配って社交界に日本をアピールしたりしているのです。

こちらが池田長発の名刺です。

フランスで配られた日本初(?)の名刺/国立国会図書館蔵

官名である「池田筑後守」が実に流麗な筆跡です。

池田本人の筆かどうかはわかりませんが、日本語の美しさを再認識できますね。

 

現地ではそれなりに歓待もされ

左側には、ローマ字の読み仮名とフランス語で「Ambassadeur de L. M,taicoun du Japan」(日本の将軍の外交官)と書かれています。フランス側の通訳が書いてくれたんですかね。

フランス側でも外交儀礼は守ってくれていて、晩餐会では「日本人には西洋の酒は口にあわないだろうから、前に来た日本人が持ってきた紹興酒を飲むといい」と言われたそうです。

この「前に来た日本人」というのは、約二年前の「文久遣欧使節」のことだと思われます。

福沢諭吉が参加したことで有名な使節団ですね。

文久遣欧使節(右から二番目が福沢諭吉)/wikipediaより引用

ということは、おそらく池田たちも「ヨーロッパ一の奇人(by福沢)」ことレオン・ド・ロニーと会って話したんでしょうねえ。

この頃レオンはパリで日本語を教えていましたから、「生きた教材が来たぞヒャッフー!!」くらいにはテンションが上がっていてもおかしくありません。

 

結果が出ないからって石高半減と蟄居は辛い

ナポレオン3世の皇后・ウジェニーとも結構話したようです。

「婦人らしい話題」としか書き残されていませんが、日本の衣食住や家庭のことなどでしょうか。現代でもそうですが、固有名詞が多くなりそうな話だと、通訳の苦労がしのばれます。

宮廷外では、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも会いました。

シーボルト(異国叢書より)/国立国会図書館蔵

もしかすると、彼に会ったことで、長発は西洋の理系学問に興味を持ったのかもしれません。

こうして直に西洋を見聞した長発は、「日本は開国して、西洋と付き合うべきだ」と考えるようになりました。

交渉がうまくいかないこともあり、予定していたイギリス訪問を取りやめて、日本へ帰国。

幕府の希望とは反していますから、長発は石高半減と蟄居という罰をくらいます。

自分の思い通りにならないから罰する――とはダメな政治判断の典型でしょう。これでは後に続く勇気を持った者が現れません。

戊辰戦争の頃には許されたものの、既に長発は健康を害しており、地元に学問所を作って教育にあたっていたそうです。

その跡地である岡山県井原市立井原小学校には、長発の生誕150年を記念して、銅像が建てられたとか。

ここで生まれ育つ人だけでなく、少年少女たちには長発のように、広い視野を持って学び、遊び、成長してもらいたいものです。


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【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
月報/国立国会図書館
池田長発/Wikipedia
横浜鎖港談判使節団/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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