横井小楠

横井小楠/wikipediaより引用

幕末・維新

岩倉や春嶽に才能を見込まれながら暗殺された横井小楠とは一体何者?

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横井小楠
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松平春嶽のブレーンとして

以降、横井小楠の浮沈は主君である春嶽と一致することになります。

「将軍継嗣問題」で一橋派の一角を担った春嶽は【安政の大獄】で処分を受けて、政治の舞台から姿を消します。

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春嶽の政治復帰は文久2年(1862年)、島津久光の挙兵上洛に端を発した政治改革からです。

幕府の政事総裁職に就任。横井はそのブレーンとして、江戸でその補佐にあたります。

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そして横井は幕政改革に乗り出し、時代錯誤な参勤交代制の事実上の廃止など、積極的に発言しました。

しかし横井の不幸は、春嶽ほど彼を理解できる人間がいなかったということです。

かつて失言で禁足処分を受けたほど舌鋒鋭く、かつ先進的である横井は、敵を作りやすい性質でもありました。

横井は何度か上洛を申し出ているのですが、春嶽はその身を案じて却下しています。

そしてこの年の暮れ、ついに横井は宴会の席で刺客に襲撃されてしまいます。

現代人ならば、これはもう襲った側が完全に悪い。

しかし、当時は武士の時代。

運悪く、横井は大小を持っておらず、犯行現場をいったん離れていました。

襲われた上に同行者を置いて逃げたことが不適切であるとして、熊本に呼び出された挙げ句、士籍剥奪処分を受けてしまうのです。

福井藩は弁護したものの、熊本藩では切腹を減じただけで、厳しい処分を下したのでした。

 


東洋の仁政と西洋の技術――を日本の未来に

横井小楠は世捨て人として、熊本郊外沼山津にある「四時軒」に暮らしました。

勝海舟や大久保一翁(忠寛)と文通する、訪問した坂本龍馬と面談するといった程度しか、この激動の幕末と接触することはできません。

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それでも彼は、幕末の論壇において、一定の意見を持っていました。

「四時軒」が保存されている横井小楠記念館/photo by hyolee2 wikipediaより引用

横井の理想は、他の誰とも違う独自のものでした。

自らが追及してきた儒教が根底にある【仁政】により、武家政権を否定し、近代化思想を取り入れてゆくというものです。

この思想は慶応2年(1866年)、兄の遺児である左平太・太平をアメリカに留学させる際の言葉にも現れています。

「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、なんぞ富国に止まらん、なんぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」

(堯舜孔子の道(=儒教思想に基づく仁政)を明らかにし、西洋の技術を学び尽くせば、強兵だけに留まらず、大義を世界中に示すことができるだろう)

東洋の仁政と西洋の技術――それこそ日本の未来を導く両輪であると、彼は信じていたのです。

横井の思想が実現していたらば、日本の近代化はもっと別の形になったことでしょう。

右にならえと西洋流を真似するのではなく、東洋に根付いた仁政と西洋由来の化学や思想が結びついた、そんな世の中となったはずです。

もしも横井が、こんなことにならなければ……。

常に春嶽の側にいれば、幕末の政治は違ったものになったかもしれません。

春嶽は聡明でしたが、自分でも自覚していたように、優秀なブレーンの意見を取り入れて生かすタイプの人物でした。

自ら動く島津久光とは正反対といえましょう。

橋本左内を「安政の大獄」で失い、横井小楠を思わぬトラブルで失った春嶽は、パフォーマンスが落ちていたと考えてもおかしくはないのです。

福井藩は将軍継嗣問題以来、幕末の政局に関わっています。

それでも維新に絡むことができず、影が薄いのは、様々な悪条件が重なったからなのでした。

 

あまりに理不尽な刺客の刃に斃れ

慶応3年(1867年)末、維新前夜。

熊本藩に、横井小楠を新政府で登用したいという申し出がありました。

名声が高く能力も高い人物を世捨て人にしておくのは惜しい――と、岩倉具視が確信していたのです。

これを機に名誉回復も行われ、横井は世に出る機会を取り戻したのです。

そして翌年には、新政府参与として登用されるのですが……活躍の機会は永遠に失われてしまいます。

明治2年(1869年)正月5日。

横井の乗った駕籠が、刺客に襲撃されました。

彼らの手にかかり、横井は首を打たれました。

享年61。

横井小楠殉節地(京都市中京区寺町丸太町下る東側)/photo by mariemon wikipediaより引用

その襲撃の根拠は不明瞭で、横井が「西洋思想やキリスト教に国を売る」というものでした。

誰よりも強く、東洋の仁政と西洋の技術の融合を目指していた横井にとって、あまりに理不尽な言いがかりです。

彼の死後、その理想は潰えました。

横井小楠之墓(京都市左京区・南禅寺天授庵)/photo by mariemon wikipediaより引用

日本は「脱亜入欧」西洋流の植民地主義や富国強兵策を採用し、東洋の儒教的仁政からは距離を置きます。

横井がそんな世の中を見ずに世を去ったのは、不幸中の幸いだったかもしれません。

いや、もしも日本が、横井の目指した理想のもとで明治を歩んでいたら?

きっと別の歴史があったことでしょう。

歴史に”if”は禁句です。

それでも、横井小楠の理想が実現していたら。

そう考えずには、いられません。


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文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
圭室諦成『横井小楠 (人物叢書) 吉川弘文館』(→amazon

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