皆が、その「功績」に触れれば「知られざる→知ってしまった」状態になるから当たり前ですが、それでもやっぱり「知られざる偉大な功績」というのは残っています。
1815年(日本では江戸時代・文化十二年)3月13日に誕生したジェームス・カーティス・ヘボン。
彼は「ヘボン式ローマ字」の考案者であると同時に、日本初の和英辞典を作り、日本人の英語力向上に計り知れない影響を与えています。
その事績を振り返ってみましょう。
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シンガポールで音吉の日本語訳聖書に触れる
ヘボン式ローマ字=日本語の英字表記。
そんな業績があれば、さぞかし「言語に関する仕事をしていた人」というような気がするかもしれませんが、彼の本職は文系ではありません。
お医者さんにして宣教師です。
ジェームスの両親が信仰心の厚い人だったこと、彼自身の選んだ道が医学だったことが影響したのでしょう。
ペンシルベニア大学医科を卒業後、海外への伝道を夢見るようになったのだとか。
そして志を同じくするクララ・メアリー・リートという女性と出会い、25歳のとき結婚。翌年、いよいよ国外への宣教のためボストンから船旅に出て、シンガポールに到着しました。
ここでギュツラフ版日本語訳聖書『約翰福音之傳』を入手し、日本語への興味を抱いたようです。
これは音吉が携わった、初めての日本語訳聖書ですね。
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近い時代の人物同士が思わぬところで接点を持っているのも、歴史の面白いところです。
人種のサラダボウル化は始まっていた
しかし、クララの流産・出産に続き、夫婦揃ってマラリアにかかったため、このときは布教を断念してアメリカへ帰国。
ジェームスはしばらくニューヨークでクリニックを開いて生計を立てていたそうです。
当時のニューヨークは衛生環境が悪く、医師はいくらいても足りない状態でした。
1840年代後半。
ジャガイモ飢饉から逃れてきたアイルランド系移民。
アヘン戦争に始まる混乱を避けてきた中国系移民などなど。
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既に人種のサラダボウル化が始まっていたのです。
そりゃ、これだけ違う国から人が集まってくれば、いろいろとカオスになるのは当然の話ですよね。
ジェームスは一人一人に丁寧な診察と治療を行い、やがて評判の良いクリニックになっていきました。
夫婦ともに健康を取り戻す頃には資金もたまり、再びアジアへの伝道を夢見るようになります。
そして1859年(安政六年)、宣教師ならぬ宣教医として再びニューヨークを出港し、香港・上海・長崎を経由して横浜にやってきました。
3,500人もの患者を診た
船旅の間も、日本語を勉強していたそうです。
マカオではペリーの通訳を務めたサミュエル・ウィリアムズに日本語を習い、来日してからは日本人に話しかけまくって覚えたんだとか。
なかなか独特な手法で「これは何ですか?」という言い回しを覚え、日本人に物の名前を聞いてまわる、というものです。
脳筋な感じのやり方ですが、確かに効率はよさそうですね。日本人って、少しでも日本語がわかれば外国人でもしゃべれる人が多い……気がしますし。当時もそうだったんですかね。
こうして日本に馴染み始めたジェームスは、横浜市内のお寺に住まいと診療所を構え、医療活動を始めました。
彼自身の書いた手紙などによると3,500人もの患者を診たのだそうです。
当時の日本ではクラミジアによる眼病を患っている人が多く、その患者が一番多かったとか。
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