島津斉彬

島津斉彬/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末薩摩の名君・島津斉彬~西郷らを見い出した開明派50年の生涯とは

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島津斉彬
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本拠・鶴丸城で閲兵していたところ、急病となり……

この状態を、大名たちも見逃しませんでした。

次の将軍の後見に近い立場になればなるほど、自分の家や藩が有利になります。

そこで斉彬は、かねてから親交のある斉昭の息子・一橋慶喜(後の徳川慶喜)を十四代将軍にすべく動き始めたのでした。

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その一環として、大奥から切り込むために送り込んだのが篤姫である……というのもおそらく大河の通りです。

家慶も一時は慶喜を跡継ぎに考えていたようなので、その辺も影響したかもしれませんね。

一方、直弼らは血筋の近さなどから紀州藩十三代藩主・徳川慶福(よしとみ)を擁立しました。こちらはこちらで英邁を知られており、推される理由としては充分です。

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最終的には大奥での徳川斉昭の嫌われ方、慶福が家定のいとこである関係などにより、慶福が十四代将軍に決まります。

斉彬らの敗北ということになりますが、これに対して彼は武力で対抗しようとしていた……とされています。

そのための準備として本拠・鶴丸城(鹿児島城)で閲兵していたところ、急病となりそのまま亡くなりました。

鶴丸城(鹿児島城)

死因はコレラということになっています。

が、斉彬の息子の多くが夭折している(暗殺の疑いがある)ため、「島津斉興島津久光(派の家臣たち)による暗殺ではないか?」という説も根強く囁かれております。

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肝心の斉彬と久光の兄弟仲はかなり良好でしたので、久光主導の暗殺は考えにくいですけどね……。

 

カメラの趣味で娘を撮影した写真も残る

次の薩摩藩主の座は、斉彬の遺言で、久光の長男・島津忠義が継ぐことになりました。

当初は斉彬の息子・哲丸が成人するまでの予定でしたが、当の哲丸が夭折したため、忠義がそのまま藩主を務めています。

そして忠義は最後の薩摩藩主となったのです。

お由羅騒動の経緯からすると意外かもしれませんが、前述の通り斉彬と久光とは仲が良かったそうで、弟の気持ちも汲んだのでしょうか。直接、久光を跡継ぎに指名すると影響が大きすぎますし、斉彬と久光は8歳しか変わらないので、年齢的な理由もあるでしょう。

斉彬自身のモットーとして、

「愛憎で人を判断してはならない」

「誰にでも好かれる人物は、非常時に的確に判断できない」

といったものもあります。

幕末の大名であり、幕政にも関わろうとしたことから何となくコワいイメージもありますが、プライベートでは写真を愛するという一面もありました。

斉彬自ら娘を撮った写真もあります。

斉彬が撮影したとされる娘たちの写真(左から典姫・暐姫・寧姫)/wikipediaより引用

現代のプロの目から見ても割と腕は良いんだとか。

長生きして普通に隠居していたら、もっと多くの写真を撮り、その道でも名を残していたかもしれませんね。

こちらは島津斉彬本人を撮影したもの(1857年)/wikipediaより引用

 

【年表で見る島津斉彬と外国圧力の歴史】

1808年 生誕前 フェートン号事件(外国からの圧力)
1809年 1才 島津斉彬誕生
1811年 3才 ゴローニン事件
1821年 13才 伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成
1823年 15才 シーボルトが鳴滝塾を開く
1825年 17才 無二念打払令(異国船打払令)
1827年 19才 西郷隆盛誕生
1828年 20才 シーボルト事件
1830年 22才 大久保利通誕生
1833年 25才 天保の大飢饉(~39)
1837年 29才 モリソン号事件
1839年 31才 蛮社の獄
1840年 32才 アヘン戦争
1841年 33才 水野忠邦「天保の改革」
1844年 36才 西郷が郡方書役助になる・英仏の艦隊から薩摩属領の琉球に通商要求
1846年 38才 大久保tが記録所書役助として働き始める・ビッドル浦賀へ
1848年 40才 調所広郷が自害
1849年 41才 お由羅騒動(~50年)
1851年 43才 斉彬が薩摩藩11代藩主(28代当主)に就任・集成館事業スタート・ジョン万次郎を保護・太平天国の乱
1853年 45才 ペリー来航
1854年 46才 西郷を江戸に連れていく・洋式帆船「いろは丸」を完成・木綿紡績事業を始める・ペリー再び(日米和親条約)
1855年 47才 安政の大地震
1857年 49才 幕府の阿部正弘亡くなる・篤姫と徳川家定が婚姻・精忠組の活動→島津久光に接近
1858年 50才 島津斉彬、藩兵5,000を率いて上洛準備の最中に急死

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
島津斉彬/wikipedia
お由羅騒動/wikipedia

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