ラザフォード・オールコック

ラザフォード・オールコック/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末維新の日英関係に欠かせない ラザフォード・オールコックは一体何をした人?

2024/11/01

「今は辛くても、そのうちいいことあるって」

誰かに悩みを相談したときに、こんな感じの答えが返ってきて、がっかりした経験ありません?

しかし世の中には、本当にそれをやってのけるどころか、全く別の道へ進むことによって、歴史に名を残したような人もいます。

初代イギリス駐日総領事で1897年11月2日に亡くなったラザフォード・オールコックです。

ラザフォード・オールコック/wikipediaより引用

安政五年(1859年)5月に来日を果たした、当時の日英関係を語る上で欠かせない人物であり、弊サイトでもたびたび名前を挙げさせていただきました。

最も印象が強いのは、以下の記事にもある富士山登山ですが、

オールコック富士登山記念碑
外国人初の富士山登頂は現代なら炎上必至?幕末のオールコック御一行は何をした

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それ以外の仕事はキッチリやっています。って、当たり前ですね。

今回は彼の生涯を振り返ってみましょう。

 


両手の親指が動かなくなり医業を断念

当初、ラザフォードは外交ではなく医学の道を志し、外科医として働いていました。

父親が医師だったからです。

一方で彫刻にも興味を持ち、プロに弟子入りしていたこともあります。

他にフランス語やイタリア語も学んでおり、元々興味の幅がかなり広い人でした。

いかにも文化人や外交に向いていそうですね。人生どこでどう転ぶか、何が功を奏するかわからないのが面白いところです。

1832年からイギリス軍医として、戦争中のイベリア半島に赴くことになります。

当時このあたりはナポレオンのいらんおせっかいやら、北アメリカの植民地を失うやらで、非常に不安定な社会。

そこから内乱まで起きる上、ヨーロッパの戦争あるあるの通り、周辺諸国が手と口を突っ込んでくるのですから、たまったものではありません。

ラザフォードも、この戦争で個人的に大きな被害を受けました。

軍医の激務と戦場のストレスからリウマチにかかり、両手の親指が動かなくなってしまったのです。

外科医としては致命的。

医療の道を断念しますが、ラザフォードはこれまで身に着けてきた語学や、生まれ持っての好奇心を活かし、外交官として再出発することを決めます。

イギリスが、アヘン戦争で清をフルボッコにしていた頃のことでした。

アヘン戦争/Wikipediaより引用

 


極東のプロとして今度は日本へ

当然、本国にも戦争の知らせは来ます。

ラザフォードはこれまで見たことのない国に興味を抱き、自ら駐在を希望して清へ渡り、そして、実に15年もの長きに渡って働き続けました。

租界(清国内の外国人居留地)の発展や、領事裁判権など。

難しい仕事を成し遂げる一方で、

「もう一発、清をぶん殴って、こっちに商売が有利になるようにしましょう」(超訳)

と進言し、アロー戦争を引き起こす一因にもなっています。

清での仕事が一段落ついた頃、日英修好通商条約が結ばれたことにより、今度は「極東のプロ」としての手腕を買われ、日本駐在が決まります。

本国の外務大臣である第三代マームズベリー伯爵ジェームズ・ハワード・ハリスがこんな手紙をラザフォートに送っておりました。

「日本も中国もそんなに変わらないだろうから、君の経験が大いに役に立つと思う。期待しているぞ」(意訳)

しかし、当時の日本については、清にすらほとんど情報が伝わっておりません。

当然、ラザフォードも何ら予備知識はない。ハードモードにも程がありましょう。

日本を知るための資料を買い漁ったペリーやら、日本語をマスターしていたレオン・ド・ロニーらの努力のほどがうかがえますね。

 

テンぱってる日本を相手に粘り強く交渉を続ける

こうして無茶振りをされたラザフォードは、まず長崎にやってきました。

後から長崎に赴任する駐在員が来ることになっていたので、日本の空気に慣れながら、待ち合わせしていたのです。

彼は町の景色をいたく気に入ったようで、後々、著書の中で絶賛しています。

後述する日本の遣欧使節のスケジューリングの要として

「使節団がイギリスやフランスが美しく見える季節に到着する」

ことを念頭に置いたのも、自分自身が景色から来る異国の第一印象を好意的に見たからでしょうか。

第一印象が良いと、その後のやりとりも好感を伴って取り組めますもんね。

その後は海路で東海道沖を通り、品川沖にやってきました。そして江戸幕府側と何度か交渉を重ね、高輪の東禅寺に滞在します。

ウォールコックの滞在先・東禅寺/wikipediaより引用

ハリス外務大臣からはこんな風に忠告されておりました。

「日本は今、西洋諸国と一斉に交渉してテンパっているだろう。こちらの話がうまく伝わらなかったり、なかなか進まないかもしれないが、根気強く交渉するように」(意訳)

某国お得意の棍棒外交や砲艦外交ではなく、あくまで粘り強い交渉を進めていたのです。

当時の日本は「清のついでに確保しとけば便利になりそうなところ」ぐらいの認識だったからかもしれません。

これが後に日英同盟や日露戦争に繋がるのですから、さすが大英帝国様の慧眼ですかね。

 


浅草の仲見世で買い物を楽しんだことも

ラザフォードは神奈川(県ではなく地名)や横浜に出かけ、庶民の生活や活気を褒めつつ、幕府が開港地を神奈川から横浜に変えてしまったことには厳重抗議したり、締めるべきところは締めました。

このとき江戸幕府が「横浜は神奈川の一部です!!」とゴリ推したことは有名ですが、ちゃんとした理由があります。

「神奈川だと江戸に近すぎるし、既にデカイ宿場町になってるから攘夷派が紛れやすい」

「何かあったら困る」

「ちょっと離れたところに新しく外国人を受け入れる町を作ろう!」

「 横浜あたりならデカイ船も入りやすくていいんじゃね!? 最初から外国人向けって触れ込みにすれば、開国賛成派が集まって攘夷派は来にくくなるしね!」

そんな感じだったのですが、きちんとラザフォードや他の外国公使に伝わっていなかったようで、要らぬ誤解を招きかけました。

ラザフォードは来日当初から長崎の風景を絶賛していたり、自分たちを見物する日本の庶民が大人しいことに好感を持ったり、基本的に日本には好意的でした。

富士山への旅行中のみならず、箱館へ視察旅行に行ったときも、市場に出かけて物価の安さに驚いたりしています。

駐在先の東禅寺近辺だけでなく、浅草の仲見世を歩いて買い物を楽しんだこともありました。

本国の外務大臣あてに「日本で面白いものを見つけたので、お子さんにどうぞ」とお土産を送ったりもしています。

しかし、ヴィクトリア女王と大英帝国の威厳を損なわないこと、今後の二国間関係に支障をきたさないことがそれ以上に重要であり、ピリピリしている時期もありました。

一部の書簡では、上司に対するものとは思えない言葉遣いにもなっています。

ヴィクトリア女王/wikipediaより引用

 

攘夷派の台東で石を投げられたり刀を抜かれかけたり

1860年代に入って攘夷派の活動が活発になると、いよいよノンビリしていられなくなりました。

道を歩いていて石を投げられたり。

攘夷派と思われる武士に半分刀を抜かれたこともあったり。

また、来日前から付き合いのあったアメリカ駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンが攘夷派の襲撃でブッコロされてしまったことで、一気に警戒心が高まりました。そりゃそうだ。

ヒュースケン襲撃の想像図(あくまで想像図です)/wikipediaより引用

特にラザフォードはハリスやヒュースケンと前々から付き合いがあったので、他人事ではなかったでしょう。

「欧米の公使は横浜へ移るべきだ」

そう強調しましたが、ハリスが強固に反対したため、二人の仲はこじれてしまいます。

そこにはイギリス代表とアメリカ代表というビミョーな関係も影響していました。

この時点だと、アメリカが独立してからまだ100年も経っていません。元宗主国vs元植民地という構図ですね。

さらに、清国に15年駐在した経験もあるラザフォードから見て、ハリスは「商人上がりの半人前」なわけです。

タウンゼント・ハリス/wikipediaより引用

また、日本の公的使節団がヨーロッパではなく、先にアメリカへ行ったこともラザフォードにとっては不服でした。

「あんな野蛮な新興国を先に見て、偉大なる西洋文明を理解したつもりになられたらたまらない」

ラザフォード自身が本国への書簡でそう書いているのですから、もうね。

 

襲撃されてさすがにヤバイ 英国水兵を常駐させて

閑話休題。

あっちこっちへ敵意や蔑視を向けつつも、彼はなんだかんだで良心のある人間でした。

【桜田門外の変】にも大きな衝撃を受けたラザフォードは、見舞いの手紙で「こちらの医師を派遣しましょうか」と申し出てたことがあります。

井伊直弼/Wikipediaより引用

恩を着せる意図もあったでしょうが、全く人道的な観点がなかったとも思えません。

幕府は断ったんですけどね。

ラザフォード自身も1861年、居留先の東禅寺で襲撃されてしまいました。

彼は無事でしたが、イギリス側の負傷者は当然いました。

これを機に、ラザフォードはイギリス水兵を東禅寺に駐留させるよう求めています。幕府も承認せざるを得ません。

ラザフォードは幕府の求心力低下と同時に、開港延期の必要性を悟ります。

公使をブッコロしに来るようなヤツがうろちょろしている状況では、たとえ正式に開港しても、自国の死傷者が増えるばかりでメリットがありません。

そのため幕府からの遣欧使節をサポートしたり、本国政府に直接事情を説明するために自ら帰国したり、各所で骨を折っておりました。

帰国のついでに『大君の都』という日本訪問記をロンドンで出版しています。

この本で特に日本の景観についてベタ褒めしているのですが、やはりキリスト教徒ゆえか「彼らは偶像崇拝者なので死後は地獄に落ちる劣等民族である」とも書いていました。

この時代じゃ、多数派というか。まぁ、直接言われたら腹立ますけどね。

 

さらに過激化で物騒な事件が連発

一方で「ロシアとお付き合いをするのはやめてね^^」と圧力をかけ、対馬に滞在していたロシア艦を退去させています。

現代では当たり前のことですが、この時代に西へ東へとよく頭が回るものです。IQ計ったらどれぐらいだったんでしょうね。

文字通り東奔西走しながら、日本への帰任は、元治元年(1864年)のこと。

この間に生麦事件や薩英戦争などが起き、日本国内での攘夷派はより過激化しています。

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ラザフォードは下関事件などに関わりましたが、代替わりしていたイギリス外務大臣ジョン・ラッセルに「手荒なことすんな」(超訳)と言われ、かつての部下であるハリー・パークスに駐日公使を引き継ぐことになったのです。

これによほど腹を立てたらしく、その後「ラザフォードのやり方が良かったんじゃないか」と言われて再任を要請されても断っています。

1865~1869年までは北京におり、その後、外交官を引退して本国イギリスへ。

王立地理学会などで勤めると、1897年にロンドンで亡くなりました。88歳の大往生です。

彼の最晩年に日清戦争が起きているので、早く帰国していたのは正解だったかもしれませんね。

なんだかんだで運命の女神に微笑まれていたかのような生涯だった――なんて言い過ぎでしょうかね。


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【参考】
国史大辞典
佐野真由子『オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)』(→amazon
ラザフォード・オールコック/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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