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【中島三郎助】
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こんなにあった軍艦の利用
移動のみならず、幕府海軍はちゃんと役に立った部分もあります。
・軍艦による外国人居留地「横浜」のパトロール
・小笠原諸島の開拓への利用
・将軍家茂の上洛
特にインパクトが大きく、大変だったのが文久2年(1862年)の将軍・徳川家茂上洛です。

徳川家茂/wikipediaより引用
攘夷にこだわる朝廷に対し、軍艦による移動をアピールすることは実に大きなメリットがありました。
とはいえ、万が一、沈没して将軍が海の藻屑と化してしまったら……目も当てられません。
更には、伝統的な陸路を変更することは並大抵のことではありません。
この時期の幕府といえば政治的に右往左往。
その一方で、こうした断固たる革新も行っていたわけです。
政治劇ばかりではなくて、こういう部分もちゃんと注目しないと、幕末はなかなか見えて来ないのかもしれません。
家茂の上洛で指揮を執った勝海舟は、面と向かって将軍に海軍の有用性を説きます。
そこで家茂も柔軟な発想を見せ、勝の発案を取り入れると確約、彼を感動させました。
歴史に“もしも”はありえませんが、家茂が将軍のままならば、海軍を切り札にした有利な戦闘の可能性を感じなくはありません。
しかし、彼はその後21才にして亡くなってしまうのでした。
使われなかった切り札
幕府海軍は決して弱かったわけでも、使い物にならなかったわけではありません。
ただ、実際に活躍はできなかった。
なぜか?
政治的な失敗です。
【長州征討】でも幕府は海軍が使えたら、長州に勝ち目はありません。
しかし、イギリスは水面下で長州を支援し、フランスと手を組んだ幕府を崩壊させようと目論んでいました。
このイギリスが主導し「海上戦闘で我が国の船が巻き込まれたら危険だ」と言い張ったために、幕府は海軍力を封じられているのです。
福沢諭吉は後に「外国の支援を得てでも長州を潰していれば倒幕はなかった」と回想しています。
確かにそうなのでしょう。支援もそうですが、あのとき強引にでも海軍を動員していたら、歴史は変わっていたかもしれません。
【鳥羽・伏見の戦い】のあと、徳川慶喜は海軍を江戸への逃走にだけ使用しています。これは幕府権威と士気を決定的に低下させました。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用
前述のように、勝海舟は怒り「なんで海軍を使わないのか!」と進言しました。
小栗忠順はさらに陸軍も駆使して、西軍迎撃策も練っています。
しかし、こうした策とて、慶喜が縮こまってしまったらどうしようもない。トップが劉禅であれば、諸葛亮が何人いようと無駄なのです。
諦めきれない榎本武揚らが北海道まで艦隊を率いて向かい、それを新政府軍が追います。
それでも勝てず、ついにはアメリカの軍艦・ストーンウォール号を提供されて、やっと【箱館戦争】に勝利をおさめることができました。
榎本はその能力の高さを見出され、薩摩の黒田清隆が助命嘆願したのです。
結論としましては……
幕府の海軍は連戦連勝、近代の基礎となる――
むしろ優秀だったのに、政治的に敗北してしまい使われなかった、というのが適切なところでしょう。
これは私の個人的な意見ではありません。【日露戦争】のあと、東郷平八郎が【日本海海戦】の勝利は小栗忠順のおかげだと感謝しているのです。
黒船来航から15年後、日本の海で起こったこと
冷静に考えてみますと、幕府はあまりに過小評価されていると思えてきます。
黒船来航からわずか15年間で、日本人同士が海軍を率いて戦えるようになったのです。
船を作り、輸入し、操縦し、戦う。そこまで来ていた。
ここで疑問が湧いて来るのが、このことです。
「もしも倒幕がなければ、日本は近代化できなかったのか?」
明治維新といいますと、薩長の開明的な政治・外交があったから日本は近代化へ進んだ――翻って、徳川幕府のままなら旧態依然の封建制度に甘んじていただろう――という捉え方をされがちです。
しかし流れを見ていると、決してそうではないでしょう。
もしも幕府が存続していたら、勝海舟がそうしたように軍備を整え、来るべき世界の動きに対応していた可能性は十分にあります。
そうした柔軟さも人材も十分に備えておりました。
現に大隈重信は「明治の近代化は、ほとんど彼の構想を模倣したに過ぎない」として小栗忠順を振り返っています。
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』で主役に抜擢されたこの小栗忠順こそ、明晰な頭脳の持ち主として知られながら、冤罪で新政府軍に処刑された幕臣です。

小栗忠順/wikipediaより引用
幕末を経ての文明開化というと様々な業績が紹介されますが、技術力、海軍力の伸びも凄かった! ということは、もっと周知されても良さそうな気がします。
★
幕府海軍最後の戦いに、中島三郎助は榎本武揚らと共に参戦。
降伏勧告を無視して戦い続け、息子二人と一緒に壮絶な戦死を遂げています。
ペリー来航時に相手から嫌がられるほど質問を続けた中島は幕臣として、技術者として、武士として、幕府海軍の始まりから終焉まで見届けたことになります。
彼の胸中に去来したものは、一体何だったのか。
中島の辞世は、以下の通りです。
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
無念の思いが伝わってきます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
神谷大介『幕末の海軍: 明治維新への航跡』(→amazon)
浦賀市/中島三郎助まつり(→link)
中島三郎助父子最後之地(函館市)(→link)
岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争 (新書y)』(→amazon)